もりじゅんの読書ブログ

読んだことない人には面白そうと、読んだことある人にはヒントの1つをと、作品を紹介できたらと思います

『人間失格』や『斜陽』のプロトタイプの短編 太宰治「ヴィヨンの妻」のあらすじと面白がれるポイントのご紹介

 

『太宰治全集8』 ちくま文庫

 

原稿用紙で57枚の太宰治後期の短編、「ヴィヨンの妻」が好きです。
理由は、太宰は女主人公の一人称の小説がうまいこと(他に「女生徒」『斜陽』など)、のちに発表される『斜陽』『人間失格』内に含まれる要素の萌芽が見られることです。

それらをたった57枚の分量のサイズで味わえることは、エッセンスが濃いとも言えましょう。

本日はこの作品の魅力について語ってみたいと思います。

 

mori-jun.net

 

 

 

作者・太宰治の簡単なプロフィール

1909年(明治四十二年)、青森・津軽の大地主の家に生まれ育つ。東京帝国大学(現東京大学)文学部仏文科に進学、中退し、学生時代から抱いていた文学への志を胸に小説家として活躍を始める。主な代表作に「走れメロス」『斜陽』『人間失格』など。デカダンな私生活と作風が特徴的な私小説作家。何度も女性と心中を試み失敗するが、1948年(昭和二十三年)6月13日、玉川上水に愛人とともに入水、38歳で死亡。現在でも遺体が発見された6月19日は「桜桃忌」として国民に愛される作家。

 

「ヴィヨンの妻」の背景

1947年(昭和二十二年)に発表され、のちに表題作として単行本化される。「ヴィヨン」とはフランスの15世紀の詩人・フランソワ・ヴィヨンが放蕩であったこと、本作の主人公の内縁の夫がやはり放蕩の詩人であることが重ね合わされている。2009年に映画化もされており、『ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~』という題で松たか子、浅野忠信が出演している。

 

 

あらすじ

全三章からなる。戦後の混乱期が舞台。
主人公の放蕩詩人の内縁の妻が知的障害児と思われる男の子と夜寝静まっていると、そこに慌てた様子で夫が帰ってくる。次いで料理屋の夫婦が訪ねてくる。夫婦によると、夫の大谷が五千円という大金を盗んだとのこと、返さないならば警察に言うという。隠し持っていたナイフで脅して逃げる大谷。その後妻は料理屋夫婦を家に上げて主人の話を聞く。何でも大谷は多額のつけが溜まっていたとのこと。

妻は「私がこの後始末をする」と言って夫婦に引き取ってもらうが、実は何の方策もない。翌日息子を連れて井の頭公園に行くが、何とはなしに中野の夫婦の料理屋を訪ねて「お金の手はずは整ったから、それまで自分が人質としてここで働く」と思いつきの嘘をつき、実際にそうする。その晩偶然大谷は別の親しげなマダムと来店し、マダムにより盗んだお金の件については落着する。

安く負けて総額二万円の大谷の負債を返すべく、その後も妻は「椿屋のさっちゃん」として働く。逆にそうすることで大谷との時間が増える妻。客に犯されるということもあったが、ある日誰もいない料理屋の中で、二人は会話する。妻は言う、「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ。」

 

感想、解説

私が太宰治が好きな理由

人によって好き、嫌いがはっきり分かれる作家が太宰治であると思いますが、私の中でも、やはり好き、嫌いの両方の気持ちがあったりします。

好きなところを言うと、安心して読める、というところがあると思います。

太宰の書く小説は、登場人物が傷つき、また、それを書いている作者自身も傷ついているのですが、それらを眺めている読者側が傷つくことはほとんどない、という読み方を私はしています。なので読書行為の中で傷つくことを恐れず読めるという点で、非常に安心できるのです。

対して嫌いなところを言うと、甘ったれた根性に辟易するときがあることです。基本的に太宰の書く小説は理想主義通りにいかない現実に対して過剰に傷ついてその感情を吐露するという面が多々あると思います。逆に言うと、その甘さを貫くところに我々読者も安心感といいますか、救われるところがあるのかもしれません。

 

「ヴィヨンの妻」でも出てくる弱さと、開き直り

そんな太宰が書いた後期の短編「ヴィヨンの妻」ですが、やはり世間に対してお人よしすぎるところがしばしば見受けられます。というかそんなところばかりかもしれません。この話は小説、それも戯曲テイストの三部構成としても読めますが、それにしても例えば当時大金だった五千円を盗まれて、その奥さんにこれほどあけっぴろげに料理屋主人が人情味をこめて長口舌を振るうというのはリアリティーが欠けると言いますか、作品世界そのものが「お人よし」の世界観であるところを如実に表しています。大谷の甘さが作った綻びを、周囲の人物の甘さが次々とフォローしていく、といった構図になっていて、厳格な人格の人物は一人として出てきません。肯定的な表現を使うと、互いが互いを許し支え合う、といった世界観です。それを甘さと見なすか、救いと見なすかは、読者個々人に委ねられています。

そんな弱き人々――十代の頃愛読していた私自身も含めて――の弱き助け合いの世界にも、光があります。それは、明るさと、開き直りです。何もかも失ったときに、笑える人と、笑えない人がいると思います。太宰が書く小説は、笑える人によるものです。どことなくユーモラスなのです。滑稽さによってこの作品世界は支えられています。そして結末、大胆な開き直りが行われます。五千円を盗んだことに対して言い訳として大谷は妻に「さっちゃんと坊やに、あのお金で久し振りのいいお正月をさせたかったからです。人非人でないから、あんな事も仕出かすのです。」と言いますが、さっちゃんは、

「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ。」

と切り返します。

大谷の言った台詞がどこまで真情なのかはわかりませんが、全部出鱈目でないことは人物像的に薄々想像はつきます。中途半端なやさしさも感じられます。その弱き人の妻であるさっちゃんも、大谷よりかは強いけれども、弱き人の一人です。「生きていさえすればいいのよ。」と言える妻の抱える絶望感、環境、この一言ですべて物語っているかもしれません。その絶望と裏表になっている開き直りに、読者は救われます。

 

『斜陽』『人間失格』のモチーフがすでにこの作品に出ている

『斜陽』では旧華族の女主人公が庶民の生活の中で目覚めていく、という構図になっていますが、女性主人公のモノローグといい、それまでの生活スタイルを革新していくというストーリーといい、もしかしたらこの「ヴィヨンの妻」がきっかけのようなものになっているのかもしれません。

また、『人間失格』の中で男性主人公の妻がある日知り合いの男に犯されるという場面がありますが、そのモチーフもこの作品の中で形を変えてすでに出てきています。

 

考えさせられたシーン

第三章で椿屋から大谷、さっちゃん、そしておそらく坊やと三人で帰る場面がありますが、その中でこんな会話文が繰り広げられています。

「なぜ、はじめからこうしなかったのでしょうね。とっても私は幸福よ。」

「女には、幸福も不幸も無いものです。」

「そうなの? そう言われると、そんな気もして来るけど、それじゃ、男のひとは、どうなの?」

「男には、不幸だけがあるんです。いつも恐怖と、戦ってばかりいるのです。」

これは小説ですから、コンプラとか関係ないのでしょうけど、現代に生きる人間として読むと、まとめすぎ、ひとくくりにしすぎだな、と思う反面、いささか真実味を私は感じてしまいました。

もしかしたら、太宰は女性は「いま」に生きる才能がある、「いま」を楽しむことにすぐれているのに対し、男性は未来のことばかり気にしすぎて不幸しかない、ということを言いたかったのかもしれません。そうであるならば、自分にもそういう面があるので、個人的には考えさせられました。

 

映画化されたものもよかった

だいぶ前に視聴したのですが、太宰治原作の映画化としては、『人間失格 太宰治と3人の女たち』と比してですが、なかなか好印象を持って観ることができました。浅野忠信の掴みどころのない笑顔と、松たか子の芯のある女性を演じる力とが、救いになっていて、ラストの台詞もパンチが効くような構成が再現されていて、私としてはよかったです。

 

 

読書もなかなか進まず、自分の言葉もなかなか出てこなく、少しばかり記事の更新をお休みしていたのですが、そろそろ自分に負荷をかけるためにも、自分の好きな小説について書いてみたいと思います。
短い作品を扱ったものばかりになると思いますが、おつき合いください。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。