W・サマセット・モームの世界的ベストセラーの一つ、金原瑞人訳『人間の絆』(新潮文庫)を読み終えました。
作品後にモームが寄せている「序」でも触れられているように、自伝的小説です。
モームの分身であろうフィリップ・ケアリが10歳のときに母と死別し(父はその半年前にやはり病死している)、30歳で医師免許を得て独り立ちするまでを、大河ドラマ級の長さではないものの、連続テレビ小説クラスの緻密さと分量で描いています。
かといって、淡々とあった出来事を記しているわけではなく、フィリップの成長と、そのときそのときどう感じ、考え、動いたかを内面を重視して書いているので、読む方も、考えながら全122章を読まされます。内面というより、フィリップが、世界のありよう、そしてこの世界で生きていく上で、どういったスタンスで生きていくべきか? といった問いが各時代で書き換えられていくのをつき合わされている、と言った方が近いかもしれません。
その意味において、読者(つまり私)とも意見が重なったり、ぶつかったりすることは必定で、心の中で「わかるわかる!」や、「いや、それは違うだろう、フィリップ!」と叫びながら読まされることになります。
というようなわけで、大変読みごたえがあった本作について、思うところを遠慮なく――つまりネタバレありで――ビシバシと書き綴ってみたいと思います。もちろん、これから本作を手に取られる方は、一から楽しみたいと思っておられる方は、本記事の閲覧をご遠慮ください。なぜなら小説の展開が「そうくるかあ!」と驚かされる面白みや、発見が、だいぶ減少するからです。お読みになってから、本記事に目を通されて、ご自身の感想と比べてみてください。それではまず全体の流れ(10~30歳までのフィリップの年譜的構成)から語ってみたいと思います。
『人間の絆』主人公フィリップの遍歴
1章で眠っていたフィリップは起こされ、母に抱かれます。これが最後の母との接触です。それから彼はどうしていくのか。おおまかに、各時代に分けてみたいと思います。短い期間のものは括弧で括ります。
- (牧師の伯父と伯母のもとでの生活)
- キングズ・スクール(聖職者になる生徒が多い学校)での少年時代
- (信仰を捨て)ドイツ・ハイデルベルクへの留学。ロマンの発見
- (伯父の家でのミス・ウィルキンソンとの交際)
- (ロンドンでの会計士見習い時代)
- パリでの画家修業時代。美に憧れる
- (才能に見切りをつけ)ロンドンの医学校に通う。ミルドレットを愛す
- (財産を失い)貧窮生活。衣料百貨店で働き食い繋ぐ
- 結末部分(ネタバレにもほどがありますので秘密にさせていただきます)
フィリップの精神的遍歴の図
社会の中における立ち位置、としてのフィリップの遍歴は、上記の箇条書きのように並べられますが、彼の精神性の遍歴については、次のように図示できるかもしれません。
彼がたどり着いた結論
フィリップは、①のキングズ・スクール時代において、牧師の伯父の期待や彼自身の信仰から、神について考え、真剣に祈ることもありましたが、結局、信仰心を失います。自分は宗教に向いていない人間だと知ります。そのようにして、各時代ごとに、いろんな幻想に憑りつかれたあと、それらに幻滅を覚え、それらを捨て去ってゆきます。
②のドイツ時代では、ロマンでしょうか。
③の壮絶な美と対峙して己や周囲の才能の有無と向き合う場面は、4年後の1919年に発表する『月と六ペンス』とも絡んできて、シリアスで、なおかつ胸に迫る生々しい情念が感じられて、残酷です。残酷と言えば、この『人間の絆』全体を通して言えるのですが、けしてモームは人を描くとき躊躇しません。登場人物たちにフィリップ目線でポンポンと美質を挙げていくこともあるのですが、醜いところを容赦なく言及してしまいます。そこまでフィリップに悪しざまに思わせるか、という書きっぷりをしています。そこらへんは読者によって好悪は分かれるかもしれませんが、私はモームのその残酷さが好きです。正直な人なんだな、と思う。けして手を緩めないところに尊敬の念さえ覚えてしまいます。
④の時代での、フィリップが悪女と言い切ってもかまわないであろうクソ女、ミルドレットに自分でも理由がわからなくのめりこんでゆくところは、最初の方は「クソ男とクソ女だなあ」と笑って読んでられていたのですが、最後の方は、彼らに憤怒を覚えるほどひどい。「オレだったらこんな女と同居してたら二日に一回はブチ切れてるだろうな」と想像することで読み続けるのが可能になるぐらい。そしてその理由を考えて驚いたのですが、私が最後におつき合いしていた女性がちょっとミルドレットに似ている……ということは、この頃のフィリップ・ケアリに私は似ていたということに気づき、愕然として笑わざるをえませんでした。あるんですよね、人の人生にとって「愛」に憑かれてしまうとき。すでに述べましたが、「自分でも理由がわからなく」のめりこむ。「自分でもコントロールできないぐらい」愛してしまう。これは「愛」に限らず、人生の諸時期でのあらゆる行動や思念にも言えることなのではないでしょうか。私がこの記事をタイピングしているとき、それは本当に私の意志でタイピングしているのか。何か視えざる圧倒的な私とは無関係の力によってそうさせられているだけではないか。過去の重大な決断をしたことも、今朝バナナを食べたことも、何がしかに操られているだけではないか。この感覚は読者である私の感想だけではなく、主人公のフィリップも認識しています。それが言語化されるのが次の⑤です。
貧窮の中、大英博物館の中でフィリップは唐突に悟ります。
生は無意味で、死は何も残さない。フィリップは歓喜した。十代の頃、神への信仰という重荷が肩から消えたときの歓喜を味わった。責任という最後の重荷から解放されたような気がした。そして生まれて初めて、完全に自由になった。自分が無価値だという自覚は力につながった。そして突然、いままで自分を迫害してきた残酷な運命と対等になったように感じた。
そしてフィリップは己の生き方に結論を出します。
絨毯織りの職人はなんの目的もなく、ただ美しいものを作る喜びにひたってあれを織った。そんなふうに人生を生きることもできるのではないか。また、何ひとつ思うような選択ができないまま生きてきたと思っている人でも、絨毯織りのように自分の人生をみれば、それがひとつの模様になっているのがわかるはずだ。何かをする必要もなければ、したところでなんの益もない。やりたければ、やればいい。人生の多くのことから、行動や感情や思考などすべてのことを素材に模様を描くことができる。
フィリップは、とうとう何もないところに到達できたのかもしれません。神を抛り出し、ロマンを抛り投げ、美・才能と決別し、愛の醜さを知り、人生の意味から逃れられた。その瞬間、彼は無敵の人になったことでしょう。この経緯がまったくモームの体験と同じなのかどうかはわかりませんが、執筆時のモーム自身の結論ともだいぶ重なっていることでしょう。
結末に関しては、一言だけ言わせてもらうと……温かなロマンチシズムを感じてしまいます。最終的には、そういうものが必要になってくるわけです。
フィリップは、このように、モラルや、ロマンチシズムの側と、リアリストとの側との、両極の間で常に揺れ動いているのですが、各時代ごとに追ってゆくと、徐々にリアリズムに寄っていっているように感じられました。それが、少年から青年、壮年へと移り変わるさまを見ているようで、楽しめます。
フィリップのように、いろんな幻想を捨てていくことは、非常に力のいることです。力があるからこそ、幻想を持たなくてすむ。私たちは、弱き人間だからこそ、何らかの幻想にしがみついてしまいます。もちろん、小説の中のフィリップも同じです。最終的に、ある意味、彼は何も変わってはいないとも言えます。ときには冷酷で、ときには情深い。そんなあらゆる二律背反の間を、彼は揺れ動いている。彼に言わせれば、無意味なりにペルシャ絨毯の模様を織ろうと。あとで振り返ったら、それなりの美しさのある模様になっていればいいなと。
このような古典的名作は、もっと若いときに読んでいればよかったなと思いました。次、機会があれば、モームの短編集、『ジゴロとジゴレット』あたりを読んでみたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。