もりじゅんの読書ブログ

読んだことない人には面白そうと、読んだことある人にはヒントの1つをと、作品を紹介できたらと思います

「歯車」 芥川龍之介が遺した死なないための処方箋

こんにちは。

とある小説を読んでいて、「寒中」とは、小寒から大寒、そして立春の間の時期を指すと学んだのですが、今はまさに「寒中」ということになりますね。

寒中お見舞い申し上げます。

朝方の冷えが特に体に堪えます。

 

寒中が出てくるその小説とは、芥川龍之介の遺作の一つ「歯車」です。

死後公開・掲載された晩年の代表作です。

もう十回以上読み返した作品なのですが、今さらながら手に取ってみました。

今日はこの作品「歯車」がどうしてなおも私の心を掴むのか、現代でもどのようなところが価値があると思われるのかについて、お話ししたいと思います。

 

芥川龍之介 関連書籍

 

 

芥川龍之介のプロフィール

1892年(明治二十五年)東京・京橋に生まれる。芥川が生まれた年に実母が精神病を発症、母の実家・芥川家で育てられ、養子となる。東京帝国大学(現東京大学)文科大学(現文学部)英文科に進学。在学中にのちに文藝春秋社を起こす菊池寛らとともに同人活動を行い、「羅生門」「鼻」を発表。夏目漱石に「鼻」を激賞される。卒業後海軍機関学校の英語教師や大阪毎日新聞社に勤める傍ら、創作活動を続ける。1919年(大正八年)結婚。三男を儲ける。1927年(昭和二年)7月24日、35歳で自死。晩年は胃潰瘍、神経衰弱、不眠症に悩まされていた。近代日本文学を代表する短編作家。代表作に「蜘蛛の糸」「地獄変」「藪の中」「河童」「歯車」など。

 

「歯車」について

死の年の1927年3月23日から4月7日にかけて執筆された全6章からなる「話らしい話のない」短編小説。

晩年の芥川は「話らしい話のない」心境小説を構築しようと企んでいたが、「物語の面白さ」を訴える谷崎潤一郎との論争の中で劣勢に立たされていた。

あえてストーリーを形作ってみると、

「東京への帰路の車中で芥川と思しき『僕』はレインコートを着た幽霊の話を聞かされる。東京のホテルに泊まりながら執筆する『僕』はたびたび不吉なレインコートを目撃する。若い頃から患っていた右目に半透明の歯車が現れる症状と頭痛に悩まされながら、『僕』は東京をさまよい歩き苦闘する。『僕』は鵠沼と思しき妻の実家近くの借家に移るが、『僕の一生の中でも最も恐ろしい経験』は続く」

 

反面教師としての小説

芥川が「歯車」を書いて半年もたたないうちに自死したことはすでに書きましたが、「歯車」を読んで一番思うことは、「こんな考え方と感覚と心境を抱えて生きていたら、そりゃそうなるだろう」という残念ですが率直な感想です。

けれどもそこには私にも共感できる部分が少なからずあったりします。

そのような己の内部に蔵する「危険なもの」の取り扱い方を客観的に見つめるためもあって、私は再読を繰り返しているというところもあります。

具体的にその「感覚」の一部を例示してみると、

  • レインコートを目にするたび、単なる偶然に必然を見出だし始める。
  • 蛆=Wormが麒麟や鳳凰と同レベルの伝説的動物に感じられだす。
  • 黄色いタクシーには不吉を感じ、緑色のタクシーには良縁を感じる。

こんな関連妄想じみたことをいちいち思っている芥川≒僕を想像すると、どれだけこの時期の芥川の神経が脅かされていたかが胸を締めつけてきます。

 

また、「考え方」ですが、作中で「僕」は、知性を重んじ、「親和力」(愛情という意味かと思います)を軽蔑するといった態度を取っています。

理性と感情の乖離。

これもまた、こんな自身の身を切り裂くような考え方を持って生きていたら、相当つらいだろうなと、容易に推測が働きます。

 

「心境」は、「僕」は、過去にある取り返しのつかない過ちを犯した、と思い続けています。

それが女性関係のものかもしれないと、読者は何となく察しがつきます。

具体的にどんなことで、どれほど道徳的に重大な「罪」なのかまでは、わかりません。

しかし、どんなものであれ、そこまで怯えて暮らすには芥川≒僕の神経は弱すぎます。

作中に「僕は芸術的良心を始め、どう云う良心も持っていない。僕の持っているのは神経だけである。」という過去自身が書いた文章の一節を出していますが、これは、明らかに主人公の芥川≒僕の心情とは異なるものです。

良心を持っていないのなら、罪悪感など抱えず生きてゆけるのですから。

そのような自己分裂の痛ましさが、読んでいて伝わってきます。

 

このような健全とはけして言えない信念と感覚と感情を持っている芥川≒僕の小説を読むことにより、死なないための知恵を逆に得られるチャンスがあると私は思っています。

まさに反面教師から提出された教材として。

こういう読み方ができる作家に、他に、太宰治、三島由紀夫、川端康成などがいると思います。

みな芥川と同じ人生の閉じ方をしています。

彼らに共通するのは、過剰な感受性と、理性と感情の分離の度合が過ぎる、ということかもしれません。

かなり大まかにまとめてしまいましたが。

だいぶ偏った扱い方ですが、彼らは私に死なないための処方箋を出してくれているように思います。

 

あと、一つつけ加えたいのですが、「歯車」は私小説のように見えて、かなり作りこまれた作品であるということです。

計算されて過剰に不気味な符合が出てきます。

不吉さと異常心理とを演出するために。

そこらへんが、死を前にして、理詰めの短編を書き切ってきた、芥川龍之介の本然と意地が垣間見れて、鬼気迫るものを感じさせます。

ネタバレになるので引用できませんが、ラストは「話らしい話のない」わりにはダイナミックです。

 

村上春樹は自身の英訳をしてくれているジェイ・ルービンが編んだ『芥川龍之介短篇集』に寄せた序文で、以下のように「歯車」について触れています。

この『歯車』という作品の中には、自らの人生をぎりぎりに危ういところまで削りに削って、もうこれ以上は削れないという地点まで達したことを見届けてから、それをあらためてフィクション化したという印象がある。すさまじい作業である。「自分の肉を切らせて、相手の骨を断つ」という表現があるが、まさにそれだ。

この解釈や表現の仕方がすごくよくわかる、というわけではないのですが、村上春樹の視点で読むと、そのようになるようです。

 

 

参考文献

『芥川龍之介全集6』(ちくま文庫)

ジェイ・ルービン編・村上春樹序『芥川龍之介短篇集』(新潮社)

関口安義『芥川龍之介』(岩波新書)

鷺只雄編著『年表作家読本 芥川龍之介』(河出書房新社)

『新文芸読本 芥川龍之介』(河出書房新社)

 

 

 

 

 

 

「寒中」、ただでさえ体が冷え心痩せる季節ではありますが、そしてまたそんな季節には堪える作品ではありますが、芥川龍之介「歯車」を取り上げてみました。

愉快なコンテンツを楽しむことも大事ですが、ワクチンとしてたまにこういうタイプのコンテンツを摂取することも大事かもしれませんね。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。