もりじゅんの読書ブログ

読んだことない人には面白そうと、読んだことある人にはヒントの1つをと、作品を紹介できたらと思います

『人間失格』や『斜陽』のプロトタイプの短編 太宰治「ヴィヨンの妻」のあらすじと面白がれるポイントのご紹介

 

『太宰治全集8』 ちくま文庫

 

原稿用紙で57枚の太宰治後期の短編、「ヴィヨンの妻」が好きです。
理由は、太宰は女主人公の一人称の小説がうまいこと(他に「女生徒」『斜陽』など)、のちに発表される『斜陽』『人間失格』内に含まれる要素の萌芽が見られることです。

それらをたった57枚の分量のサイズで味わえることは、エッセンスが濃いとも言えましょう。

本日はこの作品の魅力について語ってみたいと思います。

 

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作者・太宰治の簡単なプロフィール

1909年(明治四十二年)、青森・津軽の大地主の家に生まれ育つ。東京帝国大学(現東京大学)文学部仏文科に進学、中退し、学生時代から抱いていた文学への志を胸に小説家として活躍を始める。主な代表作に「走れメロス」『斜陽』『人間失格』など。デカダンな私生活と作風が特徴的な私小説作家。何度も女性と心中を試み失敗するが、1948年(昭和二十三年)6月13日、玉川上水に愛人とともに入水、38歳で死亡。現在でも遺体が発見された6月19日は「桜桃忌」として国民に愛される作家。

 

「ヴィヨンの妻」の背景

1947年(昭和二十二年)に発表され、のちに表題作として単行本化される。「ヴィヨン」とはフランスの15世紀の詩人・フランソワ・ヴィヨンが放蕩であったこと、本作の主人公の内縁の夫がやはり放蕩の詩人であることが重ね合わされている。2009年に映画化もされており、『ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~』という題で松たか子、浅野忠信が出演している。

 

 

あらすじ

全三章からなる。戦後の混乱期が舞台。
主人公の放蕩詩人の内縁の妻が知的障害児と思われる男の子と夜寝静まっていると、そこに慌てた様子で夫が帰ってくる。次いで料理屋の夫婦が訪ねてくる。夫婦によると、夫の大谷が五千円という大金を盗んだとのこと、返さないならば警察に言うという。隠し持っていたナイフで脅して逃げる大谷。その後妻は料理屋夫婦を家に上げて主人の話を聞く。何でも大谷は多額のつけが溜まっていたとのこと。

妻は「私がこの後始末をする」と言って夫婦に引き取ってもらうが、実は何の方策もない。翌日息子を連れて井の頭公園に行くが、何とはなしに中野の夫婦の料理屋を訪ねて「お金の手はずは整ったから、それまで自分が人質としてここで働く」と思いつきの嘘をつき、実際にそうする。その晩偶然大谷は別の親しげなマダムと来店し、マダムにより盗んだお金の件については落着する。

安く負けて総額二万円の大谷の負債を返すべく、その後も妻は「椿屋のさっちゃん」として働く。逆にそうすることで大谷との時間が増える妻。客に犯されるということもあったが、ある日誰もいない料理屋の中で、二人は会話する。妻は言う、「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ。」

 

感想、解説

私が太宰治が好きな理由

人によって好き、嫌いがはっきり分かれる作家が太宰治であると思いますが、私の中でも、やはり好き、嫌いの両方の気持ちがあったりします。

好きなところを言うと、安心して読める、というところがあると思います。

太宰の書く小説は、登場人物が傷つき、また、それを書いている作者自身も傷ついているのですが、それらを眺めている読者側が傷つくことはほとんどない、という読み方を私はしています。なので読書行為の中で傷つくことを恐れず読めるという点で、非常に安心できるのです。

対して嫌いなところを言うと、甘ったれた根性に辟易するときがあることです。基本的に太宰の書く小説は理想主義通りにいかない現実に対して過剰に傷ついてその感情を吐露するという面が多々あると思います。逆に言うと、その甘さを貫くところに我々読者も安心感といいますか、救われるところがあるのかもしれません。

 

「ヴィヨンの妻」でも出てくる弱さと、開き直り

そんな太宰が書いた後期の短編「ヴィヨンの妻」ですが、やはり世間に対してお人よしすぎるところがしばしば見受けられます。というかそんなところばかりかもしれません。この話は小説、それも戯曲テイストの三部構成としても読めますが、それにしても例えば当時大金だった五千円を盗まれて、その奥さんにこれほどあけっぴろげに料理屋主人が人情味をこめて長口舌を振るうというのはリアリティーが欠けると言いますか、作品世界そのものが「お人よし」の世界観であるところを如実に表しています。大谷の甘さが作った綻びを、周囲の人物の甘さが次々とフォローしていく、といった構図になっていて、厳格な人格の人物は一人として出てきません。肯定的な表現を使うと、互いが互いを許し支え合う、といった世界観です。それを甘さと見なすか、救いと見なすかは、読者個々人に委ねられています。

そんな弱き人々――十代の頃愛読していた私自身も含めて――の弱き助け合いの世界にも、光があります。それは、明るさと、開き直りです。何もかも失ったときに、笑える人と、笑えない人がいると思います。太宰が書く小説は、笑える人によるものです。どことなくユーモラスなのです。滑稽さによってこの作品世界は支えられています。そして結末、大胆な開き直りが行われます。五千円を盗んだことに対して言い訳として大谷は妻に「さっちゃんと坊やに、あのお金で久し振りのいいお正月をさせたかったからです。人非人でないから、あんな事も仕出かすのです。」と言いますが、さっちゃんは、

「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ。」

と切り返します。

大谷の言った台詞がどこまで真情なのかはわかりませんが、全部出鱈目でないことは人物像的に薄々想像はつきます。中途半端なやさしさも感じられます。その弱き人の妻であるさっちゃんも、大谷よりかは強いけれども、弱き人の一人です。「生きていさえすればいいのよ。」と言える妻の抱える絶望感、環境、この一言ですべて物語っているかもしれません。その絶望と裏表になっている開き直りに、読者は救われます。

 

『斜陽』『人間失格』のモチーフがすでにこの作品に出ている

『斜陽』では旧華族の女主人公が庶民の生活の中で目覚めていく、という構図になっていますが、女性主人公のモノローグといい、それまでの生活スタイルを革新していくというストーリーといい、もしかしたらこの「ヴィヨンの妻」がきっかけのようなものになっているのかもしれません。

また、『人間失格』の中で男性主人公の妻がある日知り合いの男に犯されるという場面がありますが、そのモチーフもこの作品の中で形を変えてすでに出てきています。

 

考えさせられたシーン

第三章で椿屋から大谷、さっちゃん、そしておそらく坊やと三人で帰る場面がありますが、その中でこんな会話文が繰り広げられています。

「なぜ、はじめからこうしなかったのでしょうね。とっても私は幸福よ。」

「女には、幸福も不幸も無いものです。」

「そうなの? そう言われると、そんな気もして来るけど、それじゃ、男のひとは、どうなの?」

「男には、不幸だけがあるんです。いつも恐怖と、戦ってばかりいるのです。」

これは小説ですから、コンプラとか関係ないのでしょうけど、現代に生きる人間として読むと、まとめすぎ、ひとくくりにしすぎだな、と思う反面、いささか真実味を私は感じてしまいました。

もしかしたら、太宰は女性は「いま」に生きる才能がある、「いま」を楽しむことにすぐれているのに対し、男性は未来のことばかり気にしすぎて不幸しかない、ということを言いたかったのかもしれません。そうであるならば、自分にもそういう面があるので、個人的には考えさせられました。

 

映画化されたものもよかった

だいぶ前に視聴したのですが、太宰治原作の映画化としては、『人間失格 太宰治と3人の女たち』と比してですが、なかなか好印象を持って観ることができました。浅野忠信の掴みどころのない笑顔と、松たか子の芯のある女性を演じる力とが、救いになっていて、ラストの台詞もパンチが効くような構成が再現されていて、私としてはよかったです。

 

 

読書もなかなか進まず、自分の言葉もなかなか出てこなく、少しばかり記事の更新をお休みしていたのですが、そろそろ自分に負荷をかけるためにも、自分の好きな小説について書いてみたいと思います。
短い作品を扱ったものばかりになると思いますが、おつき合いください。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

感謝を忘れがちな人に スコット・アラン『毎日を好転させる感謝の習慣』

 

『毎日を好転させる感謝の習慣』 スコット・アラン 弓場隆訳 ディスカヴァー・トゥエンティワン

 

タイトル通り、感謝を日常に取り入れることを推奨する本です。
感謝の念を持つことによって、どのような人生のメリットが生まれ、具体的にどのように感謝の習慣を実践していくかについて、述べられています。

 

 

感謝がもたらす脳科学的幸福

著者が集めた研究データによると、感謝することで、情熱をかき立てるドーパミンと気分を盛り上げるセロトニンの両方の神経伝達物質が増大するとのこと。

また、心理学的実験によって、感謝の手紙を書くことで、書かない人、ネガティブな内容の手紙を書くグループと比較して、幸せで穏やかな気持ちになることがわかったようです。

 

感謝の効果

「感謝の心はふだん受けている恩恵に気づくきっかけになるので、絶望感から立ち直るの役立ち、抑うつを防いでくれる」と著者は言います。

また、就寝前に感謝の習慣をつけると、熟睡を深める効果があると言います。

感謝は「与える精神」を養うとも言います。

 

感謝を実践する工夫が具体的に書かれている

本書では全7パート、全23章の中で、具体的にさまざまな心理的状態、対人関係、目的別によっていかに感謝の習慣をつけるか、感謝を実践するかを例示しています。

イメージトレーニング、日記、マインドフルネス、メール……。パッとページを開いて、できるところから始めればいい、そう著者は言います。

 

 

私が本文中で刺さった言葉は、「より大きな目標を達成することと強欲であることのあいだには明確な違いがある」というものです。

 

要するに、より大きな目標を達成することと強欲であることの違いは、感謝の心があるかどうかだ。

 

強欲とは、利己的で行き過ぎた願望で、どこまで達成しても感謝の念を覚えられない、より大きな目標を達成することは、有意義な目標を設定し、一生懸命努力し、目標を達成したことでそのこと全体に感謝することができる、そこが根本的に違うのだ、という風に定義しています。

 

私だけかもしれませんが、現代で、謙虚さや、感謝の心を常に持つことは、忘れがちになってしまいます。ある部分利己的でないと、自衛できないという社会環境ゆえかもしれません。そんな硬直した心を解き放つためにも、活力を自らに与えるためにも、感謝の二文字は、胸に刻みながら進んでいくべきものなのではないかと思いました。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

奇書を超えた傑作? 原作と映画はどう違う? アラスター・グレイ『哀れなるものたち』

 

『哀れなるものたち』 アラスター・グレイ 高橋和久訳 ハヤカワ文庫 カバー型帯

 

知人に「面白いよ」と教えられて2月下旬、ヨルゴス・ランティモス監督、エマ・ストーン主演の映画、『哀れなるものたち』を観てきました。

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2時間半近い長さもまったく苦にならず、「久しぶりに面白い映画を観たな」と、帰路の足は弾み、私にはとてもウケた作品でした。

ギリシャ人の監督だけど、原作小説はスコットランド人が書いたらしい。そんな情報を耳にして、映画の内容も手伝って、「原作小説読みたいけれど、なんか読みづらそうな予感がする」と私は思ったのですが、本日読了して、まったく私の予感は的外れであったことがわかりました。すらすら、そして、じっくり読める。ショッキングな内容は相変わらずだけど、良質な手応えが感じられました。

この記事ではアラスター・グレイ著『哀れなるものたち』を中心にして語りますが、最後に原作と映画の違いについても、少しだけ触れたいと思います。

 

 

アラスター・グレイ著『哀れなるものたち』

作者・アラスター・グレイについて簡単に紹介

1934年グラスゴーに生まれる。スコットランドを代表する小説家。画家、劇作家、脚本家としても活躍。美術学校在学中から執筆を始め30年近い年月をかけて完成させた初長編『ラナーク 四巻からなる伝記』(1981)を世に出す。本書の表紙を始めとする挿画も自ら手がけたりする多才を発揮。1992年発表の本書は長編第六作に当たり、ウィットブレッド賞、ガーディアン賞をダブル受賞し、名実ともに彼の代表作。2019年没。

 

『哀れなるものたち』の構成

  • 序文 17ページほど by アラスター・グレイ
  • スコットランドの一公衆衛生官の若き日々を彩るいくつかの挿話 409ページほど by 医学博士アーチボールド・マッキャンドルス
  • 右記著作についての孫、または曾孫宛書簡 44ページ by 医学博士"ヴィクトリア"・マッキャンドルス
  • 批評的歴史的な註 68ページ by アラスター・グレイ

 

といった、マッキャンドルスなる者が自費出版した書籍をアラスター・グレイが編者として再出版するといった形式を取っています。めんどくさいと思われるかもしれませんが、そのめんどくささが面白いことになっています。洗練された中二病とでもいいますでしょうか。

 

『哀れなるものたち』の簡単なあらすじ

ここではネタバレ予防のために、映画でもほぼこちらに材を取っている、主要パート「スコットランドの一公衆衛生官の若き日々を彩るいくつかの挿話」限定のちょっとしたストーリーを書いてみたいと思います。

 

主要登場人物
  • ベラ・バクスター 25歳のとき、ゴドウィン・バクスターによって新たに生まれ変わり、バクスターを父代わりとして、世界旅行をしたりして新たな知識と経験により旧弊でないものの見方を身につけていく女性。
  • ゴドウィン・バクスター 医学博士。解剖学に詳しい。ベラの導き手。
  • アーチボールド・マッキャンドルス 医学博士。ゴドウィンを慕っている。ベラの婚約者になる。この話の語り手。
  • ダンカン・ウェダバーン 弁護士。ベラと駆け落ちしてヨーロッパ・地中海を回る。肉体関係にしか男の尊厳を見出せない男性。
  • ドクター・フッカー 神学博士であり医学博士のアメリカ人。中国での布教を終え帰国中の船旅でベラたちと出会う。アストレーに言わせれば「未熟なオプティミスト」
  • ハリー・アストレー イングランドの産業人。同じく船旅中にベラたちと出会う。現実主義者。
  • ブレシントン将軍 「雷電」の異名を持つ軍人。ベラの最初の夫。ベラを自殺に追いこんだのも彼だが、ベラの帰国後、連れ戻しに訪れる。

 

あらすじ

19世紀末のグラスゴー。異端の科学者・ゴドウィン・バクスターは身投げで死んだ女性の遺体を引き受け、胎児の脳を取り出し、母親に移植し再生し、姪の「ベラ・バクスター」として英才教育を授ける。驚異的なスピードで意識が育つベラ。ゴドウィンの追っかけのマッキャンドルスはベラに惹かれ婚約する。そこへ召し使いたらしのウェダバーンがベラを誘惑しヨーロッパ旅行へと連れ出す。さまざまなものを見、さまざまな人たちと言葉を交わし、ベラは自分を更新――希望と現実を発見――してゆくが、セックスでしか男の威厳を見せられないウェダバーンはどんどん傷ついてゆき発狂する。ベラが話の最後で辿り着いた自分の生き方とは。

 

感想

哀れな男たちしか出てこない

ベラを中心として周囲に存在する男たちは、何らかのものをベラに求めています。

ゴドウィンにしても、理想の女性をベラに見出そうとします。それゆえ奇怪な「ベラ・バクスター」を作り上げる歪んだ哀れな男性像が浮かび上がってきます。

マッキャンドルスにしても、童貞ゆえの無邪気な女性信仰が感じられます。間抜けな哀れさを感じてしまいます。

ウェダバーンも、性の力で屈服できない女性に怖れをなして狂ってしまいます。世間によくいがちな肉体的強さしか強さと認められない男は哀れな状態を迎えます。

ドクター・フッカーは、ベラを口説こうとはしないものの、弱さを感じさせます。

ハリー・アストレーは、クールなんだけれども、ベラを論理でねじ伏せようとするものの、結局ベラの自立した女性となろうとする姿勢の前に跪きます。なんだかんだ言って口説きたいだけなんかい、と、ちょっと滑稽。

最初の夫のブレシントン将軍はゴドウィンと同等かそれ以上に狂っています。ウェダバーンと正反対の弱さのようなものを感じてしまって哀れ。

そう登場人物たちの男を「哀れ」と書いている私ですが、彼らを哀れだと感じられるということは、私の中に彼らの持つ諸要素が存在するということです。この作品的には、私も哀れ。

そんな男たちを見つめるベラはどうか? 「批評的歴史的な註」パートにおいては、ベラの哀れさが炙り出されます。

 

2段階オチが見事というか、衝撃

作内「編集者」としてのアラスター・グレイは、マッキャンドルスの著書を事実と信じている側なので、「序文」と「本文」ではマッキャンドルス寄りの記述になっていて、そういう意味ではトーンはそれほど変わりません。

しかしベラが改名した「ヴィクトリア・マッキャンドルス」として書いた「孫、または曾孫宛書簡」では、まったく違う真実が現れます……。愕然とするほど私は驚かされました。例えば芥川龍之介「藪の中」(黒澤明『羅生門』の原作)では、事件の参考人それぞれがそれぞれの視点で違ったことを話しだします。そのレベルではない、まったく解釈がアーチボールド・マッキャンドルスとヴィクトリア・マッキャンドルスの夫婦の間では食い違い、理解不能になっている関係性までもが浮かび上がり、読者としては「やられた!」と強い衝撃を受けました。見事なオチです。加えて最後の「註」では再びアラスター・グレイの筆となりますので、ヴィクトリア・マッキャンドルスへの批判めいた記述のようにも読めてしまいます。オチをまたひっくり返したわけです。いわば2段階オチのようなものでしょうか。

 

普遍性のある「真実」などない

そのような構成、また、登場人物たちの信念の異なりから導かれる感想は、「この小説の中と同じぐらい、強烈に、我々の住んでいる現実でも、それぞれの真実は食い違っているのではないか?」という疑念です。いやあ、お見事、アラスター・グレイ。訳者の高橋和久氏が解説の末尾に《そこでひとこと大真面目な助言。本書は文庫だからといって、明るい人前で読まないでください。危険です!》と書き残していますが、私もだいぶアブない作品だと思います。私からも書きたいです、これから読まれる方は、元気なときに読んでください、と。

 

ヨルゴス・ランティモス監督の映画『哀れなるものたち』との比較

映画ではわからなかったことが原作を読んでわかる

例えば、映画を一回観ただけではわからなかったことがいくつか私の中でありました。

2つ例に出すと、

  • ベラの頭に入れ替えられた胎児の脳は女児か? 男児か?
  • ベラの子宮から胎児が取り出されたとき、子宮が破壊されその後のベラは妊娠不可能な体となっているのか、否か?

もし原作世界=映画化世界ということならば、その答えは両方とも原作を読んでわかりそうです。胎児は女の子だった可能性が高いです。そしてベラは実際に作品内でのちに3人男の子を産んでいるので、普通の帝王切開だったことがわかります。

 

大きな変更点はないが、小さな違いはある

原作小説の「スコットランドの一公衆衛生官の若き日々を彩るいくつかの挿話」の部分だけを取れば、つまり、映画化されている部分だけを取れば、大筋はそんなに違いはないです。もちろん登場人物の人物像の設定の違いや、起きたこと、起きなかったこと、構成そのものの違い、映画のラストが原作にあるかないかなど、細かい違いを挙げていけばきりがありません。しかし、概ねの世界観は、だいたい一致していると私は思います。

 

原作にはあって映画にはないもの

これは本書の構成のところで触れたように、映画化されなかったパートがあと3つあります。中でも夫・マッキャンドルス目線への痛烈なカウンターであるベラの反論のあるなしが、大きい。これは小説でしか味わえないことなので、ぜひご自身の目で追って体験されることをお薦めします。

 

 

私の体験で言うと、異なるメディアで取り上げられた作品の評価は、最初気に入った方を、のちに追った媒体が上回るということは、滅多にありませんでした。例を挙げると、

  • 『君の膵臓をたべたい』映画は気に入った→原作小説を読んで少し幻滅
  • 『ノルウェイの森』原作小説お気に入り→映画化されたものを観て5分で視聴中止

みたいな感じになります。

ごく稀に、同等レベルまで好きになれることがあります。

  • 『燃えよ剣』役所広司が土方歳三役のドラマでカッコいいと思う→原作小説でもカッコいいと思う
  • 『秒速5センチメートル』アニメ映画をいいと思う→ノベライズされたものもいいと思う

『哀れなるものたち』においては、この後者の、レアケース、映画も、原作小説も、両方面白かった、という私の感想になりそうです。

読む前の予想を遥かに超えた、私にとっては、中二病の作家が書いた奇書に止まらない、傑作に、思えました。

他の方の、映画、小説、両方の感想を聞いてみたいものです。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

ブレイディみかこ『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』

 

『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』 ブレイディみかこ 文藝春秋

 

シンパシーとエンパシー

みなさんは「共感」という日本語、どのように使われますか。

「今の日本の政治家の話し方にはまったく共感できない」

「この監督の一つ前の作品には共感できなかったけど、今回のには共感できた」

「この投稿に共感していいねボタンを押してしまった」

とりあえず3つ、私なりに適当に「共感」を用いて文章を作ってみましたが、これらの「共感」は英訳すると、おそらく"sympathy"になります。ところが他方、英語ではもう一つ「共感」と訳される単語があります。"empathy"です。

 

英語圏でもこの"empathy"という言葉、大変定義及び解釈が複雑になっているようです。8種類あるという学者もいるほど。著者は次のように4つに分類してみせます。

  1. コグニティヴ・エンパシー 他者の考えや感情を想像する能力。
  2. エモーショナル・エンパシー 他者と同じ感情を感じること。
  3. ソマティック・エンパシー 他者の痛みや苦しみを想像することによって自分もフィジカルにそれを感じてしまうというもの。
  4. コンパッショネイト・エンパシー 他者が考えていることを想像・理解することや他者の感情を自分も感じるといったエンパシーで完結せず、それが何らかのアクションを引き起こすこと。

 

日本でたいてい使われている「共感」=シンパシーは、この中の⒉エモーショナル・エンパシーであり、著者が本書で扱いたいのは⒈コグニティヴ・エンパシーだと言います。

 

 

エンパシーは種類によっては危険

『反共感論 社会はいかに判断を誤るか』(高橋洋訳、白揚社)でポール・ブルームはエモーショナル・エンパシーの危険性を指摘していると言います。

事件の被害者の気持ちに共感しすぎた挙句容疑者が護送される車に生卵をぶつけに行く人は、もしかしたら不幸な事件は忘れて一刻も早く元の生活に戻りたい被害者や家族の迷惑を考えていないのかもしれない。

1人の子供が欠陥のあるワクチンで重病にかかって苦しむ姿を見てワクチン接種プログラムの中止を叫び、そのために数十人の任意の子供たちを殺すようなことをさせてしまうかもしれない。

 

シンパシー=共感、は問題がありそうです。他方、エンパシー(コグニティヴ・エンパシー)は自然発生的な共感でなく、想像力を使って理解しようとする能力ですから、能力の使い方、ということになるのかもしれません。

 

エンパシー能力は後天的なもの

坂上香監督のドキュメンタリー『プリズン・サークル』で、受刑者同士が加害者役、被害者役、被害者の家族役などのロールプレイをする中でエンパシー能力を向上させていくさまが見て取れると著者は驚きます。

また、「I(わたしは)」という主語を使って本当の言葉を発する、自己開示する、主体性を回復する過程が見られると。

「I」の獲得と、エンパシー能力の向上に、著者は「利己的になることは利他的になること」を見出します。

 

コロナ禍の中でハンド・サニタイザーやトイレットペーパーや保存食の買い占めに走ることは、医療従事者を圧迫し、貧困層の健康を低下させることで回り回って自分に被害が増える可能性をエンパシーによって理解できるはずだ、つまり、「利他的になれば利己的になる」はずだと著者は考察します。

 

サッチャーにはエンパシーがなかった

BBCのドキュメンタリーで、サッチャーの私設秘書を務めたティム・ランケスターが、

「彼女は、シンパシーのある人だったが、エンパシーのある人ではなかった」

と証言しているらしいです。

「鉄の女」サッチャーは、実は官邸のお抱え運転手や自分の身の周りで働く人々にはとてもやさしく、思いやりのある人物だったらしい。

他方、SDP(社会民主党)の創設者デヴィッド・オーウェンは、彼女がやさしかったのは、官邸で働いていたスタッフはみな各分野で成功を収めていたり優秀だったからだと言います。

「それら(優秀なスタッフたちの不幸や問題)は彼女の理解の範囲内だった。彼女の性格的な弱点、そして首相としての弱点は、様々な段階で助けを必要とする人々が、おそらく人口の10%から20%は存在するということを、けっして本当には理解しなかったことだ」

ここにエリートによる能力主義が陥るエンパシーの欠落を重ねられそうです。

 

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アナキズム=自分を手放さない

アナキズムは、「無政府主義」と訳されますが、巻末に「アナーキー」について著者の意見が述べらています。

「アナーキー」は暴力や無法状態と結びつけて考えられやすい。しかし、その本来の定義は、自由な個人たちが自由に協働し、常に現状を疑い、より良い状況に変える道を共に探していくことだ。

このような「自分を手放さない」人がエンパシーを働かせることによって、相互扶助が可能になると著者は言います。

自分は自分。他者とは決して混ざらないということである。その上で他者が何を考えているのかを想像・理解しようとするのだ。

これが著者が唱えたい「アナーキック・エンパシー」ということなのでしょう。

 

エモーショナル・エンパシーは搾取される

エモーショナル・エンパシー=シンパシーに長けた人は、受動的な「鏡」になりがちだ。それだけに、そういう個人が強烈な自我を持つ他者と出くわすと――本書では米国トランプ大統領時代を例に出しています――自分を明け渡してしまう。それは一対一の場面だけでなく、組織内の上と下の関係にも表れる。国の中での政府と労働者との関係にも言える。組織は、エモーショナル・エンパシーの搾取によって成り立っていると、著者は考えます。

だからこそ、著者は「エンパシーとアナーキーはセットで」と書きます。

 

 

ブレイディみかこさんは、多国籍なイギリスで子育てをされた経験を書いた『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』で有名な作家さんです。

 

 

その本の252ページの中に4ページしか登場しない「エンパシー」が読者に反響を呼んだようで、「エンパシー」そのものを扱った本書に取り組まれたみたいです。

 

私も知っているシンパシーと、エンパシーは、どう違うのか。

また、本記事で軽く触れました、「シンパシーの搾取」について興味がありましたので、購読してみました。

本書内に出てくるアナキズムに関心が湧き、やはり本書でも登場するジェームズ・C・スコット『実践 日々のアナキズム 世界に抗う土着の秩序の作り方』(清水展他訳、岩波書店)をほしいものリストに入れてみました。

 

 

「エンパシーとアナーキーはセットで」。シンパシーを使いがちな私には刺さった本書でした。

エンパシーは一生かけて磨き続けるべきものらしいので、これから実生活の中で気に留めてみたい思います。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

「自分は無意味である」から生じる生きる力 モーム『人間の絆』

W・サマセット・モームの世界的ベストセラーの一つ、金原瑞人訳『人間の絆』(新潮文庫)を読み終えました。

 

『人間の絆』 サマセット・モーム 金原瑞人訳 新潮文庫 上下巻

 

作品後にモームが寄せている「序」でも触れられているように、自伝的小説です。

モームの分身であろうフィリップ・ケアリが10歳のときに母と死別し(父はその半年前にやはり病死している)、30歳で医師免許を得て独り立ちするまでを、大河ドラマ級の長さではないものの、連続テレビ小説クラスの緻密さと分量で描いています。

かといって、淡々とあった出来事を記しているわけではなく、フィリップの成長と、そのときそのときどう感じ、考え、動いたかを内面を重視して書いているので、読む方も、考えながら全122章を読まされます。内面というより、フィリップが、世界のありよう、そしてこの世界で生きていく上で、どういったスタンスで生きていくべきか? といった問いが各時代で書き換えられていくのをつき合わされている、と言った方が近いかもしれません。

その意味において、読者(つまり私)とも意見が重なったり、ぶつかったりすることは必定で、心の中で「わかるわかる!」や、「いや、それは違うだろう、フィリップ!」と叫びながら読まされることになります。

というようなわけで、大変読みごたえがあった本作について、思うところを遠慮なく――つまりネタバレありで――ビシバシと書き綴ってみたいと思います。もちろん、これから本作を手に取られる方は、一から楽しみたいと思っておられる方は、本記事の閲覧をご遠慮ください。なぜなら小説の展開が「そうくるかあ!」と驚かされる面白みや、発見が、だいぶ減少するからです。お読みになってから、本記事に目を通されて、ご自身の感想と比べてみてください。それではまず全体の流れ(10~30歳までのフィリップの年譜的構成)から語ってみたいと思います。

 

 

『人間の絆』主人公フィリップの遍歴

1章で眠っていたフィリップは起こされ、母に抱かれます。これが最後の母との接触です。それから彼はどうしていくのか。おおまかに、各時代に分けてみたいと思います。短い期間のものは括弧で括ります。

  • (牧師の伯父と伯母のもとでの生活)
  • キングズ・スクール(聖職者になる生徒が多い学校)での少年時代
  • (信仰を捨て)ドイツ・ハイデルベルクへの留学。ロマンの発見
  • (伯父の家でのミス・ウィルキンソンとの交際)
  • (ロンドンでの会計士見習い時代)
  • パリでの画家修業時代。美に憧れる
  • (才能に見切りをつけ)ロンドンの医学校に通う。ミルドレットを愛す
  • (財産を失い)貧窮生活。衣料百貨店で働き食い繋ぐ
  • 結末部分(ネタバレにもほどがありますので秘密にさせていただきます)

 

フィリップの精神的遍歴の図

社会の中における立ち位置、としてのフィリップの遍歴は、上記の箇条書きのように並べられますが、彼の精神性の遍歴については、次のように図示できるかもしれません。

モーム『人間の絆』 主人公フィリップの覚醒の歴史

 

彼がたどり着いた結論

フィリップは、①のキングズ・スクール時代において、牧師の伯父の期待や彼自身の信仰から、神について考え、真剣に祈ることもありましたが、結局、信仰心を失います。自分は宗教に向いていない人間だと知ります。そのようにして、各時代ごとに、いろんな幻想に憑りつかれたあと、それらに幻滅を覚え、それらを捨て去ってゆきます。

②のドイツ時代では、ロマンでしょうか。

③の壮絶な美と対峙して己や周囲の才能の有無と向き合う場面は、4年後の1919年に発表する『月と六ペンス』とも絡んできて、シリアスで、なおかつ胸に迫る生々しい情念が感じられて、残酷です。残酷と言えば、この『人間の絆』全体を通して言えるのですが、けしてモームは人を描くとき躊躇しません。登場人物たちにフィリップ目線でポンポンと美質を挙げていくこともあるのですが、醜いところを容赦なく言及してしまいます。そこまでフィリップに悪しざまに思わせるか、という書きっぷりをしています。そこらへんは読者によって好悪は分かれるかもしれませんが、私はモームのその残酷さが好きです。正直な人なんだな、と思う。けして手を緩めないところに尊敬の念さえ覚えてしまいます。

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④の時代での、フィリップが悪女と言い切ってもかまわないであろうクソ女、ミルドレットに自分でも理由がわからなくのめりこんでゆくところは、最初の方は「クソ男とクソ女だなあ」と笑って読んでられていたのですが、最後の方は、彼らに憤怒を覚えるほどひどい。「オレだったらこんな女と同居してたら二日に一回はブチ切れてるだろうな」と想像することで読み続けるのが可能になるぐらい。そしてその理由を考えて驚いたのですが、私が最後におつき合いしていた女性がちょっとミルドレットに似ている……ということは、この頃のフィリップ・ケアリに私は似ていたということに気づき、愕然として笑わざるをえませんでした。あるんですよね、人の人生にとって「愛」に憑かれてしまうとき。すでに述べましたが、「自分でも理由がわからなく」のめりこむ。「自分でもコントロールできないぐらい」愛してしまう。これは「愛」に限らず、人生の諸時期でのあらゆる行動や思念にも言えることなのではないでしょうか。私がこの記事をタイピングしているとき、それは本当に私の意志でタイピングしているのか。何か視えざる圧倒的な私とは無関係の力によってそうさせられているだけではないか。過去の重大な決断をしたことも、今朝バナナを食べたことも、何がしかに操られているだけではないか。この感覚は読者である私の感想だけではなく、主人公のフィリップも認識しています。それが言語化されるのが次の⑤です。

貧窮の中、大英博物館の中でフィリップは唐突に悟ります。

生は無意味で、死は何も残さない。フィリップは歓喜した。十代の頃、神への信仰という重荷が肩から消えたときの歓喜を味わった。責任という最後の重荷から解放されたような気がした。そして生まれて初めて、完全に自由になった。自分が無価値だという自覚は力につながった。そして突然、いままで自分を迫害してきた残酷な運命と対等になったように感じた。

そしてフィリップは己の生き方に結論を出します。

絨毯織りの職人はなんの目的もなく、ただ美しいものを作る喜びにひたってあれを織った。そんなふうに人生を生きることもできるのではないか。また、何ひとつ思うような選択ができないまま生きてきたと思っている人でも、絨毯織りのように自分の人生をみれば、それがひとつの模様になっているのがわかるはずだ。何かをする必要もなければ、したところでなんの益もない。やりたければ、やればいい。人生の多くのことから、行動や感情や思考などすべてのことを素材に模様を描くことができる。

フィリップは、とうとう何もないところに到達できたのかもしれません。神を抛り出し、ロマンを抛り投げ、美・才能と決別し、愛の醜さを知り、人生の意味から逃れられた。その瞬間、彼は無敵の人になったことでしょう。この経緯がまったくモームの体験と同じなのかどうかはわかりませんが、執筆時のモーム自身の結論ともだいぶ重なっていることでしょう。

結末に関しては、一言だけ言わせてもらうと……温かなロマンチシズムを感じてしまいます。最終的には、そういうものが必要になってくるわけです。

 

フィリップは、このように、モラルや、ロマンチシズムの側と、リアリストとの側との、両極の間で常に揺れ動いているのですが、各時代ごとに追ってゆくと、徐々にリアリズムに寄っていっているように感じられました。それが、少年から青年、壮年へと移り変わるさまを見ているようで、楽しめます。

 

 

 

フィリップのように、いろんな幻想を捨てていくことは、非常に力のいることです。力があるからこそ、幻想を持たなくてすむ。私たちは、弱き人間だからこそ、何らかの幻想にしがみついてしまいます。もちろん、小説の中のフィリップも同じです。最終的に、ある意味、彼は何も変わってはいないとも言えます。ときには冷酷で、ときには情深い。そんなあらゆる二律背反の間を、彼は揺れ動いている。彼に言わせれば、無意味なりにペルシャ絨毯の模様を織ろうと。あとで振り返ったら、それなりの美しさのある模様になっていればいいなと。

 

このような古典的名作は、もっと若いときに読んでいればよかったなと思いました。次、機会があれば、モームの短編集、『ジゴロとジゴレット』あたりを読んでみたいと思います。

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

弓の道におけるドラゴンボール的寓話 中島敦「名人伝」

たまに発作のように中島敦の小品を読みたくなるときがあります。小品といっても美しく磨かれた珠のような佳作。佳作というか名作。無駄なく、欠けているものもない構成美と、「何々である」と野暮な解説をさせる気も失せる深淵さ。謙虚さ。そんなものを湛えている彼の作品と触れ合いたくなってしまいます。

以前「山月記」を取り上げたのですが、今日は「名人伝」を読んでみました。

 

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やっぱり面白い。読後感も上品な余韻の残り方。「名人伝」について、少しお話ししてみたいと思います。

 

 

「名人伝」の簡単な紹介

紀昌は、天下一の弓の名人になろうと思った。飛衛に弟子入りする。飛衛は百歩を隔てて柳葉を射るに百発百中するという達人。飛衛は紀昌に命じる、まず瞬きせざることを。紀昌は機織り台の下に潜りこみ、妻が動かす器械の上下するのを凝視し続けた。二年ののち、熟睡しているときでも紀昌の目は見開かれ、彼の目の睫毛と睫毛の間に小さな蜘蛛の巣ができた。

紀昌は飛衛に報告すると、次には、視ることを学べと言う。紀昌は一匹の虱を頭髪で結び、窓にかけ、睨み続けた。三月後、その虱は蚕ぐらいの大きさに見えた。三年後、虱は馬のような大きさに見えていた。表に出ると、人は高塔のようであり、馬は山であり、豚は丘みたいで、鶏は城塞のようだった。そんなに大きく見えるのだから、窓に吊るした虱を射損じるわけはない。矢は見事に虱の心の臓を貫いて毛も切れなかった。

紀昌は師に報告する。それからようやく射術の奥儀秘伝が授けられた。……このように弓の名人を目指す紀昌の辿り着いた境地とは。

 

弓における「ドラゴンボール」的成長

このように、紀昌は単純で長期間にわたる過酷な特訓を行って、弓の名手として次々とハードルを克服してゆくのですが、それがちょっと漫画の「ドラゴンボール」っぽくていいんですよね。悟空がヤムチャを乗り越え、亀仙人に敗れ、亀仙人の下で修業し、カメハメハを身につけ、いろんな強豪に勝ったり負けたりまた新たな修行をして成長してゆくドラゴンボールスパイラル的要素がちょっとある。いや、それを超えているかもしれません。だって、ドラゴンボールでは、闘わずに相手を視ただけで倒す、とか、次元の違った肉体戦でない戦闘に移行するとか、ないはずですから(私の見ていないところで、もしそういうのがあったらすみません)。

 

オチが素敵

ネタバレになるのでその後紀昌がどんな修行をし、どんな腕前になってゆくのかとか、そういう展開については言えないのですが、紀昌が本当の弓の名人として帰ってきたときと、オチになっている晩年のエピソードが、いいんですよね。

紀昌は弓を携えていない理由を訊かれ、こう答えます。

至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなしと。

この返答もカッコいいのですが、この短編が完全に老荘思想が根底にあることを指し示してもいて、スマート。そして引用はしませんが、だいぶファンタジーです、作品世界そのものが。純東洋ファンタジー。何でもありの世界です。

ラストの晩年のエピソードでのオチが秀逸すぎて、そのよさは読んでいない方には伝えにくいのですが、「何かを極める」ということが結局何を意味しているのか、考えさせられます。究極まで行くとどういうことになるのか。ぜひご自身の目でご覧になってみてください。

 

 

今週コロナワクチンを接種したのですが、ワクチンを打ったのか、コロナにわざわざかかりに行ったのか、わからないような発熱をしてしまいました。もう個人的にはワクチンはいいかな、という結論に達しています。

 

そんなわけで取りかかっている本の読書もほとんど進まず、中島敦先生に逃げてしまいました。今は熱が落ち着いているので、ぼちぼち続きを読んでみたいと思います。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

村上春樹がチャリティーで朗読した理由 「めくらやなぎと、眠る女」(短編集『レキシントンの幽霊』)

イントロダクション

昨年村上春樹と川上未映子によるインタビュー集『みみずくは黄昏れに飛びたつ』を読んでいて、1995年阪神大震災後、神戸と芦屋での2回のチャリティー朗読会の合間に短編「めくらやなぎと眠る女」が短く書き直され、「めくらやなぎと、眠る女」として朗読されたのを当時書店でバイトしていた川上未映子が会場で聞いていたということを知りました。

『レキシントンの幽霊』の中でも〈めくらやなぎのためのイントロダクション〉としてそういう経緯は書かれており、「(この作品はその地域を念頭に置いて書かれたものだからです)」と言及されているものの、被災者の前で読み上げるわけだから作品そのものにメッセージがこめられているはずだと考え、この短編を再読してみようと思いました。

そのイントロダクションでは元の「めくらやなぎと眠る女」が所収されている短編集『蛍・納屋を焼く・その他の短編』の表題作「蛍」と《対になったもので、あとになって『ノルウェイの森』という長編小説にまとまっていく系統のもの》と語られています。《ストーリー上の直接的な関連性はありません》とも。

 

 

簡単なあらすじ

二十五歳になった「僕」は五年ぶりに故郷に帰った。十一歳下の中学生のいとこは(精神的?)難聴を抱えており、新しい病院での治療のつき添いを伯母に頼まれる。いとこの診察中病院の食堂で庭の風景を見ていると、八年前の別の病院での出来事が浮かび上がる。それは友人に頼まれて同行した彼女のお見舞いだった。友人の彼女はその夏めくらやなぎが繁る丘の家で眠り続ける女の長い詩を書いていた。彼女へのプレゼントのチョコレートは暑熱で溶けてしまっていた。そんな思い出を再生させながら帰りのバスを待っているとき、「僕」はいとこに強く腕を掴まれる。「大丈夫?」そのいとこの助けによって「僕」は立ち上がれる。「大丈夫だよ」と。

 

感想

①何かをしなくてはならなかったはずだ

本作品を読んでいて一番ストレートで(少し話の線からずれるぐらい露骨に訴えられている)読者(少なくとも私)に語りかけてくるのは、帰りのバスを待っているときに考えていた八年前の後悔です。

そしてその菓子は、僕らの不注意と傲慢さによって損なわれ、かたちを崩し、失われていった。僕らはそのことについて何かを感じなくてはならなかったはずだ。誰でもいい、誰かが少しでも意味のあることを言わなくてはならなかったはずだ。でもその午後、僕らは何を感じることもなく、つまらない冗談を言いあってそのまま別れただけだった。そしてあの丘を、めくらやなぎのはびこるまま置きざりにしてしまったのだ。

友だちの彼女が当時受けた胸の手術のあと、どうなったかは、まったく書いてありません(「その友だちは少しあとで死んでしまった」とあります)。しかしイントロダクション通りに読めば、精神的病から自殺したのでは? と憶測してしまいます。また、彼女が語るストーリーによれば、めくらやなぎがはびこる丘で眠る女を救いに行くのは、友だちではないとのこと。ということは、消去法的にその場にいたもう一人の「僕」ということになるかもしれません。「僕」に何らかの責任があったのだと。書かれていない空白の時代に、「僕」は何かをしなくてはならなかったはずだ、との自責の念が書かれているとも読めます。

これを95年当時の朗読会場に置き換えると、作者(村上)は《でもここにだけは、いるわけにはいかないんだ(傍点あり)》という思いで神戸に背を向けたのだけれど、神戸に対して、「何かをしなくてはならなかったはずだ」との自責の念を抱いている、との告白のようにも想像できます。

 

②いとこに救われる

この小説の冒頭18行の出だしパートで、「僕」といとこが互いに深く傷つき、そして「僕」がいとこを少し疎んでいる気配が痛いほど伝わってきます。でも「僕」はいろんな意味でいとこを助けなくてはならない理由が存在し、彼を新しい病院へと連れていきます。もちろん「僕」もそれに抗うつもりはない。できるだけいとこのためになれたらと思い行動します。

そんな助ける、助けられるの関係が、ラスト、唐突に逆転し、いとこに「僕」は助けられます。

いとこが僕の右腕を強い力でつかんだ。(傍点あり)

それをきっかけに、「僕」は罪深い過去の思い出から、現実世界へと、営みを再開することが可能になります。

これを同じく95年当時の朗読会場を想像しながら読むと、被災者たちによって作者(村上)は精神的に逆に助けられた、という告白とも読めます。

「僕」と友達と彼女の間では、互助関係がうまく成立しなかった。いま、「僕」といとこの間では一方的に助け助けられるだけでなく、互助関係が成立している、と。また、しなくてはならないと。

そんな思いで旧短編作(約八十枚ばかり)を四十五枚ほどに短くする過程で、書き改め、読み上げたのではないでしょうか。

読書のいいところは、「間違った」読み方など存在しないことです。どう解釈してもいいという自由を与えられています。その上での、一つの読み方だと。

 

 

作者(村上)は、世間で思われているかもしれない、家にこもって小説を書いていればいいんだ、という社会的デタッチメントの作家というイメージを持たれがちですが、彼の発言や活動を見ると、けしてそうでないことがわかってきます。そういう文脈で見ると、震災後にチャリティー朗読会を行ったこと、そしてこの作品の意味合いがよりわかるのではないかと思って、再読してみました。

 

今夏、『めくらやなぎと眠る女』というタイトルの外国アニメが公開されるようです。

www.eurospace.co.jp

どうやらいろんな村上春樹原作の小説を基にして作られた作品のようですね。

 

関東の暴風は収まったものの、みなさんお体を大切にされてください。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。