もりじゅんの読書ブログ

読んだことない人には面白そうと、読んだことある人にはヒントの1つをと、作品を紹介できたらと思います

息子さんの思索と行動力がすごい ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』

 

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』 ブレイディみかこ 新潮文庫

 

『他者の靴を履く』を読んでみて、「この人の書く文章は地べたにちゃんと立って自分の頭で考えられているな。信用できる」と感じた私は、その本を書くきっかけとなった"種本"の本書『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』を手に取ってみたのでした。

 

mori-jun.net

 

ジャンル的にはノンフィクションになるのでしょうが、アイルランド人の配偶者と日本人の著者との間に生まれた英国籍の(イギリス・ブライトン在住)息子が中学に上がり、ジェンダー、人種差別、貧富の差による格差、等の問題に出会い、親子間で会話し、行動する中で、息子が成長していくという、エッセイ風の作品でもあります。

 

一番印象に残ったくだりを一つだけ挙げると、大雪の日、ホームレスの人たちに声をかけて施設に寝泊まりさせ、食料を集め合うというボランティアに母子で参加したあと、息子が「善意は頼りにならないかもしれないけれど、でも、あるよね」と言い、

 

 うれしそうに笑っている息子を見ていると、ふとエンパシーという言葉を思い出した。

 善意はエンパシーと繋がっている気がしたからだ。一見、感情的なシンパシーのほうが関係がありそうな気がするが、同じ意見の人々や、似た境遇の人々に共感するときには善意は必要ない。

 他人の靴を履いてみる努力を人間にさせるもの。そのひとふんばりをさせる原動力。それこそが善意、いや善意に近い何かではないのかな、と考えていると息子が言った。

 

このように、ブレイディみかこさんと息子さんは、他者の気持ちや状況を理解しようとする能力「エンパシー」を用いて、先述したジェンダーの問題、人種差別、格差問題に対して、思索と理解を深め自分が取るべき行動について答えに近いものを求めていきます。

 

それが何気ない学校生活(音楽部の活動や水泳大会など)の中で繰り広げられるものですから、まさに地べたで、読みやすく、読者をも自ら考えるきっかけを与えてくれます。

 

 

読むこと=インプットはそこそこできるのですが、感想を吐き出すこと=アウトプットはなかなかできない時期が続いており、ちょっと悩んでいます。
あせらず、ゆっくり待つ以外方法が浮かばないので、自分のペースで更新を続けていきたいと思います。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

MoMAを舞台にした短編5編 原田マハ『モダン』

 

『モダン』 原田マハ 文春文庫

 

ニューヨーク近代美術館、略称MoMA(The Museum of Modern Art)は、「The Modern」というニックネームで親しまれているようです。

タイトルが『モダン』であるように、所収の5編の短編すべてがこのMoMAを舞台にして行われます。MoMAで働く人々が主人公です。

冒頭の「中断された展覧会の記憶」を中心にして本作について語ってみたいと思います。

 

 

1 「中断された展覧会の記憶」

MoMAで展覧会ディレクターとして働く杏子ハワードは、ニューヨークで3.11のニュースを見る。それは10年前の9.11を思い出させずにはいられなかった。

杏子が協力していたふくしま近代美術館(架空の美術館)での「アンドリュー・ワイエスの世界」展に、ワイエスの「クリスティーナの世界」はMoMAから協力貸与されていた。

MoMA理事会は、原発事故での放射能の作品への影響を考え、貸与中止=引き上げを指示する。

福島に向かわされるのは杏子。そこでは貸与時に交流のあった長谷部伸子を始めとするふくしま近代美術館の人々、いや、震災下の福島の人たちの生活を目の当たりにする……。

 

と、途中までのストーリーを要約したのですが、本作中なぜ当作が1番印象に残ったかというと、3.11をめぐる事象が、海外から、異国人の視点から考えられていることです。

当時、私は、日本国民の一人として、今から考えると、受動的に、その「出来事」の中にいたと思います。

それが、杏子の夫のディルの次のような発言でハッとさせられます。

 

(上略)困難に直面しても節度を保ち、冷静にふるまう国民。自分は日本が好きだった。けれどもはや、日本という国が信じられなくなった。原発事故から一ヶ月も経って、ようやく「レベル7」と認めた日本の政府。じゃあその間国民の安全はどうなったんだ? 逃げ出すこともできなかったフクシマの子供たちはこのさきどうなるんだ? 自国民の安全や子供の未来をないがしろにしても事故の重大さを隠蔽する。そんな国に、僕は君を行かせたくないよ。

 

私自身には被害はなかったものの、その渦中、政府の対応に対して、疑問に感じたことはなかった。被災者の方々が懸命に生活しているように、国もまた、必死に対応していると信じたかった。しかし、ディルの日本を突き放すこの台詞によって、ようやく日本に巻きこまれていない立ち位置の人の視点を私は得られたのかもしれません。すっと、冷めて、気づく、何かがありました。

 

と、私が個人的に考えさせられたこととは別に、ストーリーは、二転三転したあと、ハートウォーミングな展開で落ち着きを見せます。それがまた日本人の視点に戻った一読者としての私には、しみじみとしてよかったです。ネタバレになるので書けませんが。

 

2 「ロックフェラー・ギャラリーの幽霊」

MoMAで監視員として働くスコット・スミスは、冬至の日の閉館間際、風変わりな青年客を見る。

その青年は「アルフレッド・バー」と自らを名乗る。

スコットの行きつけのバーの常連客から借りた過去にMoMAで開催された展示会の図録の中に、新聞の切り抜きが挟まれていた。

(1981年)コネチカット州ソールズベリーで、昨日、ニューヨーク近代美術館初代館長、アルフレッド・バー・ジュニアが他界した。享年七十九。

写真はスコットが目撃した青年の面影があった……。

 

3 「私の好きなマシン」

MoMA初代館長アルフレッド・バーは、美術のカテゴリーにデザインを組み入れた最初の人でもあった。

そんな彼が企画した「マシン・アート」を子供の頃見たジュリア・トンプソンは、工業デザイナーを目指す。

彼女がハイスクールのとき、公園で退職したばかりのアルフレッド・バーと話す機会が訪れる。夢中になってお喋りする彼女。

結末、ある会社からの依頼が五十を過ぎたジュリアの元に届く……。

 

4 「新しい出口」

セシルは大マティス展を開催することを夢見、ローラは大ピカソ展を開催することを夢見る。そんな仲良しだった二人のうちセシルが9.11で犠牲者になった。ローラはMoMAを退職して第二の人生を歩み出すことを、マティスとピカソの複合展を見ている最中、決意する。

 

5 「あえてよかった」

(原田マハ本人の経歴と近い)森川麻実は、日本の企業からMoMAへ研修として勤めていた。

あれこれと世話を見てくれるパティ。

日本へ帰国が近づいているとき、麻実はMoMAのデザインストアの企画「ニュー・ジャパネスク」で、箸が✕の字にディスプレイされていることが気になり、それを修正してもらおうとパティに頼む。

なぜ✕の形ではダメなのか、いまいち納得いかないながらも展示を直す連絡をしてくれたパティ。

麻実の勤務最後の日、パティからのお箸のプレゼントがあった。

そのお返しに、ニューヨークらしさ満載のメッセージプレゼントを残す麻実。

 

 

ところで、ガルシア・マルケス『百年の孤独』が新潮文庫から文庫化されたみたいですね。

672ページ。

うーん、読みたいけれど、今は、ちょっとやめとこうかな。

何か小説でお薦めのものなどありましたら教えてください。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

禅はどのように日本文化に入りこんでいるか?  鈴木大拙『禅と日本文化 新訳完全版』

 

『禅と日本文化 新訳完全版』 鈴木大拙 碧海寿広訳 角川ソフィア文庫

 

日本人とは、ひいてはその種族が発展させてきた日本文化の本質とはいかなるものだろう? という問いを以前から持っていたのに加え、
「禅」「瞑想」というものに興味を持っていた私は、

『禅と日本文化』という、両者がミクスチャーされたタイトルに魅力を感じ、購入しました。

 

 

読書体験の結論から言うと、前半は引きこまれ、後半は突き放された感じがしました。

各章ごとに記述や感想を追いつつ、本書の内容について触れたみたいと思います。

 

 

一、禅とは何か

禅とはインドで起こった超越主義的で哲学的な仏教が大地(生活からけして離れることのない)的で元から道教のある中国に伝わり両者が結婚した上で誕生した新たな仏教の一形態である、と、私なりに大拙の説を要約できるかもしれません。

 

  1. 禅の修行は、悟りを獲得するためにある。
  2. 悟りは、生活に新たな意味を発見させる。
  3. 明らかになる意味は、外側から付与されるものではない。ありのままの現実から生起する。

……と、11まで大拙は簡単に禅についての概要を示してみせます。

 

二、日本の芸術文化

大拙は日本文化(特に芸術)の中にどう禅の特質を見て取れるかを言います。

「アンバランス、非対称性、一角、貧、さび、わび、簡素化、孤高」への尽きせぬ憧れこそ、日本におけるアートの本質なのだと指摘します。

 

三、禅と儒学

この章では、中国における禅誕生の背景が主に述べらています。

インド思想の一つである仏教が、儒教・道教の地である中国に渡り、両者が有機的に混交し、宋の時代、「宋学」という哲学を生み出した。

ここら辺は歴史的記述もありなかなか面白かったです。

 

四、禅と武士・五、禅と剣術Ⅰ・六、禅と剣術Ⅱ

この、禅と剣術の関連性について述べる3つのパートが一番読みごたえがありました。

 

「剣術は、日本で発達したほかのどんな芸術よりも、禅に接近した」と大拙は述べる。なぜなら、「死の問題に最も切迫したかたちで直接的に関与」するのが剣士の責務であり、ゆえに剣士は生死を超越した禅の悟りの境地と密接な関係を結ぶからである。(訳者解説より)

 

私はこのくだりで、禅師沢庵と柳生但馬守宗矩、針谷夕雲・小田切一雲の無住心剣が説く「無心の心」(現代風に言えば「意識的な無意識」とでも言えるでしょうか)が心に響きました。

例えば「あの人は覚醒している」と言うとき、私はこれまで意識が意識的に覚醒しているというものだと勘違いしていました。

しかしこの3つの章を読んで、「自覚的に無意識を開放している人こそが覚醒している人」だと認識を改めることができました。

つまり私は禅的には真逆のことに取り組んでいたわけですね。

この発見は個人的には大きかったです。

 

七、禅と俳句

この章は、松尾芭蕉を始めとする俳人たちと俳句と禅との関連性について述べています。

 

古池や蛙飛こむ水のおと

 

の背景には、禅があったとのこと。

芭蕉が禅を学んでいた頃、師が彼を訪ね、「最近、調子はどうかね?」と問いかけた。

芭蕉は「ここ数日の雨があった後、苔がこれまでになく青々と茂っています」と述べる。

師は、芭蕉が禅をどこまで理解したかを測るため、二の矢を放つ。「苔が青く茂るよりも前から、そこにあった仏教とは何か?」

これに対する芭蕉の答えが「古池や……」であったとする。

 

他にも、各時代の俳人が読んだ俳句が羅列され、それについていちいち大拙は禅的観点から深く一句一句を解説してくれます。

俳句の解説書としても十分楽しめます。

 

八、禅と茶道Ⅰ・九、禅と茶道Ⅱ・十、利休と茶人たち

日本の自然をミニチュア化した茶室で行われる茶道と、禅との関連性について述べています。

 

十一、自然愛

この章を読んでいて禅には興味を持っていたものの「自分は禅とは遠いなあ」と挫折感を味わいました。

 

私たちの自己中心的な心の揺らぎを鎮め、永遠の静寂を経験させてくれる「精神的な同一化」という観念は、魅力的な発想だ。(中略)だが、それは自己流のやり方で謎を解こうとする西洋人の心である。(中略)率直に言って、禅は自然に浸透する「一つの精神」など認めないし、「自己中心的に揺らぐ」心を追い払うことで同一化を実現しようと試みたりもしない。

 

ならばどうするのかというと、禅は自己が自然となることにより、自然を体験することのようです。

そんなエゴを無にした狂人のような世界に住まう自信が私にはない、というより、なりたくない。

江戸時代の越後の僧・良寛の話も出てきますが、良寛は下着に住む虱を日中取り出して日光浴をさせてあげたり、童女と交じって手毬やお手玉をして遊んだとのこと。

そんな良寛的人生を送りたいかと問われれば、答えはノーです。

おおまかに言えば、ここまでは知性的に大拙は禅と日本文化について述べていたものの、急にラディカルな禅の認識論の世界を持ち出してきます。

即応性の中に禅はある、みたいな。

 

以前紹介した書籍『禅マインド ビギナーズ・マインド』でもう一人の「鈴木」鈴木俊隆は内面から禅について語っていたのに対し、本書では鈴木大拙は外側から禅について語っていると思います。心の言葉でなく知性の言葉として。

 

mori-jun.net

 

あと、本書の翻訳が素晴らしいことに加え、訳者による「訳者解説」は必読です。

本書本編や鈴木大拙への客観的批判も差し挟まれていて、公正な立場に読者を誘導してくれるからです。

 

約700ページもの非フィクションを読んだあとなので、しばらくは小説を楽しみたい気分です。

よい意味で感情的になれる、面白い小説を読みたいです。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

現実暴露系作家の8つの短編 サマセット・モーム『ジゴロとジゴレット モーム傑作選』

 

『ジゴロとジゴレット モーム傑作選』 サマセット・モーム 金原瑞人訳 新潮文庫

 

 

「ほんとのことをいう」モームの短編集

長編『月と六ペンス』『人間の絆』と読んできて、モームの「現実を残酷に暴く執拗な目線」のようなものに心を打たれて、本短編集に目を通してみました。

 

mori-jun.net

mori-jun.net

 

「ほんとのことをいう」とは、本書で扱っている8つの短編中7番目に出てくる「ジェイン」という作品の末尾に出てくる言い回しです。

ジェインが自分でもなぜだかわからないけれど自分の発言がみんなにウケてしまうことを考えて言った台詞です。

 

「(上略)でもそのうちわかってきたの。これは、あたしがほんとのことをいうからだって。ほら、ほんとのことをいう人って、ほとんどいないじゃない。だからおかしくきこえるのよ。(下略)」

 

タイトルでモームを「現実暴露系作家」と表現してみましたが、どんな風に暴露しているかという視点で、8つの短編を紹介してみたいと思います。

 

1 「アンティーブの三人の太った女」

冒頭に置かれたこの作品はかなり短めです。

と同時に私的には一番ピンとこなかった作品です。

南仏の町にダイエットのため(管理するための専門の医師がいたりもする)来ている3人の太った中年女。彼女たちはトランプのブリッジが大好きで、食事制限と脂肪の増減とで結ばれている。

そこへ3人のうちの一人の従姉妹がやって来る。彼女はスリムで、その上太りそうなものをよく食べる。しかし太らない。ブリッジの腕もいい。

従姉妹が3人の輪に加わることで、それまで連帯感を持っていた3人の女の仲は崩壊します。

彼女が帰ると、残された3人は爆食を始め、よりを戻すという結末。

女友達の間での友情の真実を暴露しているとでもいうのでしょうか。

 

2 「征服されざる者」

この短編が一番インパクトがありました。

第二次世界大戦でドイツ軍の兵士としてフランスに駐留している男が、ある夜農民家で娘をレイプしてしまいます。

やがて民家の家族から男は娘が自分の子供を妊娠していると聞かされます。

男は前々から反抗的な娘を屈服させたいと考えていたものの、その報せから、真心こもった気持ちで娘と結婚し農家を継ぎたいと考えます。

しかし拒絶し続ける娘。

最後の方は娘以外の家族もいろんな差し入れをくれる男に好意的になっていたのですが、娘の出産の日、悲劇は訪れます。

屈服しないフランスの女として、「征服されざる者」として、娘が取った行動とは。

 

こういうストーリーの場合、概ねドイツ軍兵士の男を威圧的、フランス人農家の娘を潔癖で孤高で強い女、と描きがちだと思うのですが、この作品の場合、兵士の側にもやさしさと戸惑いとがふんだんに見え隠れし、娘の側にも弱さがふんだんに見え隠れしています。

それが人物像と世界観にリアリティーをもたらしていると思います。

征服する者と征服されざる者の現実を見事に暴露しているのかもしれません。

 

3 「キジバトのような声」

語り手の作家の男は、プリマドンナ(オペラの主役となる女性歌手)を題材とした作品を書こうとする新進作家と知り合う。

語り手の男はあまりに夢想的な彼のプリマドンナ像を壊してやろうと、知り合いのプリマドンナとのディナーに招待する。

そこで繰り広げられるイカれた女性歌手のトークと振る舞い。

 

だが、私は物わかりのいい人間より、ちょっと面倒な人間の方が好きなのだ。彼女はいうまでもなくいやな女だが、あらがいがたい魅力があるのはまちがいない。

 

で締めくくられています。

魅力的な人物は壊滅的に壊れている場合が多い、という現実を暴露しているのではないでしょうか。

 

4 「マウントドラーゴ卿」

すぐれた精神科医のもとに、ある大物政治家が訪ねてくる。

彼は夜屈辱的な夢ばかり見続ける。

精神科医のいつものセラピーでも患者は治療しえない。精神科医は夢にいつも出てくる野党の侮辱してしまった政治家に対して謝罪しないかぎりよくなることはないと告げる。

それを拒否する患者の大物政治家。

結末、不思議な事件で、クライアントの大物政治家、野党の政治家、ともども別々に死んでしまう。

人間の潜在意識の奥ゆかしさに光を当てた作品。

 

5 「良心の問題」

南米フランス領ギアナのある町は、流刑地で、刑務所を中心とした街作りになっている。

そこを訪れている語り手の男は、世間で蔓延している「良心さえ強く持っていれば、殺人など重罪を犯すはずがない」という考えに疑問を持っている。たしかに良心の欠片もない受刑者も多い。しかし良心が理由で妻を殺害した男もいる。その男の話が彼と語り手の男の補足とで紡がれる。

「良心ですべては解決するか?」といった問題にメスを入れた作品。

 

6 「サナトリウム」

結核不治の時代でサナトリウムに集う男女はみな精神的に奇妙な状態にいる。

希望を持って建設的に生きられる患者は少ない。

そんな人たちの中であるカップルが設立し、サナトリウムで結婚式を挙げる。

男の方は余命長くはなく、結婚すればもっと短くなる。

女の方は妊娠したら命取り。

それでも愛を貫く二人の影響を受けて、結末、サナトリウムの人々は変わっていく。

 

理想主義的なものや一般論的なものをバッサリ切り捨て続けてきた著者が、本編で、「それでも愛の力は厳然として存在しているんだよ」とでも告白しているようです。「愛の存在と力」を暴露しているかのよう。

 

7 「ジェイン」

語り手の男が招かれた婦人の邸宅で、婦人の義理の妹のジェインと知り合う。ジェインはファッションも時代遅れで、ちょっと言うことも風変りだ。

そんなジェインは27歳も年下の若者と再婚する。

若者は語り手の男が海外に行っている間、ジェインのファッションや髪型を、個性的に変えてしまった。するとみるみるジェインの周りにはジェインが本来持っていた魅力に気づいた者たちが集い、ジェインはロンドンのパーティーの主役級になってしまった。ジェインの語る風変わりなことにもみな喜んで笑う。

ついにはジェインは若者を捨て海軍提督と再婚する。

そんなジェインと、彼女を見つめる最初の婦人、語り手の男の間で、ラスト会話がなされる。

ジェインはどうして変わったのか、また、元々持っていた魅力について。

 

「(上略)でもそのうちわかってきたの。これは、あたしがほんとのことをいうからだって。ほら、ほんとのことをいう人って、ほとんどいないじゃない。だからおかしくきこえるのよ。(下略)」

 

人が「何を喜ぶか」について見事に暴露した作品。2番目に私は印象に残った短編でした。

 

8 「ジゴロとジゴレット」

カジノのあるフランスの街で、炎が浮かぶ水槽に高飛びこみする芸人の妻とそれを支える夫。

ある晩1回目のショーのあと、元芸人夫婦に話しかけられたことにより、芸人の妻はメンタルを崩し死の恐怖に囚われる。2回目のショーはやりたくないと涙を流す。

それをどうにかなだめようとする今は彼女のマネージメントをしている元ダンサーの夫。

昔の苦しかった時代にまで記憶は遡り、夫はショー続行の意志を撤回して、もうやめようと言う。

しかし夫が自分を心配していろいろ昔のことを語ってくれて癒されたのか、けろりと治った妻はこう言う、

「お客さんをがっかりさせちゃだめでしょ」ステラはくすっと笑った。

 

「サナトリウム」が「愛の存在と力」を暴露しているならば、「ジゴロとジゴレット」は、パートナー間の絆の力を暴露しているのかもしれません。

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

否認→受容→感謝 樺沢紫苑『精神科医が教える 病気を治す感情コントロール術』

 

『精神科医が教える 病気を治す感情コントロール術』 樺沢紫苑 あさ出版

 

病気が治る人と治らない人の違い

  • 病気と闘い抗っている⇔病気を受け入れている
  • 悪口が多い⇔感謝の言葉が多い
  • ネガティブな言葉が多い⇔感謝の言葉が多い
  • 何でも不安に思う⇔小さなことにクヨクヨしない
  • 怒りっぽい、イライラしている⇔リラックスしている
  • 人に相談しない⇔人に気軽に相談する
  • 人を責める⇔人を赦している
  • 過去にこだわる⇔今を生きている
  • 症状のよくならない部分に注目する⇔症状のよくなった部分に注目する

 

否認、受容、感謝の3ステップ

否認とは、病気やそれにまつわる状況・原因などに対して抗している状態。

受容とは、それらを受け入れるようになれていること。

感謝とは、そのこと自体、あるいは他者へ感謝や貢献の念を抱けていること。

この3ステップを、治る患者は蛇行しながら上がっていくと、著者は言います。

 

 

受容を助ける具体的なアドバイスや、感謝の方法、また、脳内物質でストレスホルモンのアドレナリン・コルチゾールと、痛みを和らげ安心感をもたらすエンドルフィン・オキシトシンの増減の説明も入っていて、非常に読みやすい本です。

ペロリと一冊読めてしまえる本です。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

美術ミステリーに触れる 原田マハ『楽園のカンヴァス』

 

『楽園のカンヴァス』 原田マハ 新潮文庫

 

はてなブログユーザー様からご紹介いただいた一冊、原田マハ『楽園のカンヴァス』を読了しました。
一言で言うならば、感心しました。作品そのものにも、作者の原田マハさんの筆力にも。

今日は本書によりそのいかにして感心させられたかについて書いてみたいと思います。

 

 

原田マハの略歴

1962年東京都生まれ。関西大学院大学文学部日本文学科、早稲田大学第二文学部美術史科卒業。伊藤忠商事株式会社、森ビル森美術館設立準備室、ニューヨーク近代美術館勤務を経て、2005年『カフーを待ちわびて』で日本ラブストーリー大賞を受賞し作家デビュー。12年『楽園のカンヴァス』で山本周五郎賞、17年『リーチ先生』で新田次郎文学賞を受賞。(新潮文庫より)

 

『楽園のカンヴァス』の主要登場人物

  • 早川織絵 かつてオリエ・ハヤカワとして新鋭ルソー研究者として名を馳せていた。倉敷の大原美術館に監視員として勤める傍ら、シングルマザーとして一人娘・真絵を母の家で育てている。
  • ティム・ブラウン MoMA(ニューヨーク近代美術館)のキュレーター(学芸員)。本作のほとんどのパートは彼の目線で描かれる。熱心なルソー研究者。織絵とともにバイラーに招待される。
  • コンラート・バイラー スイス・バーゼルに居を据える富豪兼アートコレクター。ティムと織絵に自分が保有するルソー作品の真贋の鑑定を依頼する。
  • ジュリエット・ルルー 国際刑事警察機構の芸術品コーディネーター。
  • トム・ブラウン ティムのボスのMoMAのチーフキュレーター。大規模なルソー展を企画している。

 

あらすじ

2000年、織絵は大原美術館の一監視員として慎ましい生活を送っていた。そこへMoMAが保有するルソー「夢」の貸出に力を貸してほしいと頼まれる。織絵は1983年の出来事に思いを馳せる。

1983年、ティムと織絵はバイラーに招かれてバーゼルのバイラー邸に眠るルソー作と思われる「夢をみた」の真贋鑑定勝負に臨んでいた。バイラーが出したルールはけったいなものだった。ある「物語」が書かれた書を七日間で一章ずつ読み進め、最終日に講評をし合いそれを聞いたバイラーが勝者を選ぶというもの。

ルソーの陰にちらつくピカソの存在。またティムと織絵双方の背後に控える強欲な人々。謎に満ちたジュリエット。「夢をみた」は誰がいかなる動機で描いたものなのか。果たしてどちらが勝利を掴めるのか。いや、どちらがルソーを守れるのか……。

 

感想

原田マハの文章が好み

まず、「美術小説」なるジャンルがあることに興味を持ち、この「美術ミステリー」を手に取ってみたのですが、思ってもみなかったほどに原田マハさんの文章の綴り方が自分の好みと符合していて、そこに喜びを感じてしまいました。

私は章ごとに視点が変わったり、展開が変わったりという差異はとても好きなのですが、その章内での文章の連続の途中でブレが起きたりする文章はあまり好きではありません。つまり読みやすい文章を欲しているということです。

その上、大仰な形容を煙たがる性分があって、適度に飽きさせないほどに婉曲なレトリックがあるとなおいい、という読者です。

その両項を原田マハさんが紡ぐ文章は満たしていて、一章目から気に入ってしまいました。

読了後の感想で言うと、作品全体の総合点も加味して、原田マハさん作品をコンプリートしてもいいと思わせる満足感でした。

 

構成(展開)が素晴らしい

「美術ミステリー」である以上、ミステリーなわけですから、予想外な展開が必要なわけですが、この小説では、「トリックらしいトリック」は出てきません。

代わりに、予想外の人間背景や、本題の謎の作品「夢をみる」の作者は誰か、等のアート推理の展開で、勝負しています。

これがまた、丁寧に読んでいても、いちいち裏切られて、楽しい。

そう来たか、ここまで事前に企んでから書いていたのだな、と唸らされる技。

と言っても、一つ一つを取ってみると、大技ではなく、小技の部類に入るのではないでしょうか。

しかし、その、一つ一つの積み重ねが、愛おしく、よくできている。大袈裟に「私、こんなの仕組んでいました」とドヤ顔されるような大胆なトリックでない分、好感を持ってしまいます。

とはいえ、曖昧なまま終わった伏線もいくつかあります。しかし、全体を通して慎ましいミステリーであった以上、許容範囲になってしまう面も否めません。

私としてはありです。

 

アートへの愛着に好感を持てる

これは本作の主人公であるティムと織絵も抱えているものですが、書き手が美術への深い、揺らぎない愛を持っていることが感じられて、それがページを繰る指を下支えしてくれています。

原田マハさんが持っている「美術好き」の思いが筆に乗っていて、その熱量で読者も作品世界に入っていけるのです。

これは読者が美術を好きでなくても、例えば車好きの方だったら、車愛へと置き換えて読むことも可能なのではないでしょうか。

人が本当に好きなものを語っているとき、そこには自然と引きこまれる何かがあります。

そしてこの小説には確実にそれが起きています。

ゆえに、私は原田マハさんが書く「美術小説」を他にも読んでみたいと思うのです。

 

 

私自身は美術にあまり縁がなく、強いて言えばマティスを愛好しているぐらいですが、原田マハさんの他の作品を調べていると、そのマティスに関する短編集もあるみたいなので、また、そちらの方も読んでみたいと思います。

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

戦争体験を色濃く反映したヴォネガットの半自伝的長編 『スローターハウス5』

 

20日間ほどをかけて、ようやくカート・ヴォネガット・ジュニアの第6長編にして代表作の一つ、『スローターハウス5』(伊藤典夫訳、ハヤカワ文庫)を読み終えました。

作者のドイツ方面での第二次世界大戦従軍体験、中でも連合国側でも1963年までひた隠しにしていたドレスデン爆撃(本作によるとヴォネガットは死者数だけを取り上げて広島より被害が上だったという)による凄惨さと(実際には戦闘シーンはほとんど描かれていなく捕虜体験を中心としている)、SF的ギミックの「時間旅行」による時系列順でない記述、トラルファマドール星人による主人公のトラルファマドール星への誘拐、といった要素が闇鍋のようになっていて、読むのに時間がかかってしまいました。

 

SF作品は得意ではなく、控え目に本作について書いてみたいと思います。

 

 

作者・ヴォネガットの簡単なプロフィール

1922年アメリカ・インディアナ州インディアナポリスに生まれる。ドイツ系移民の四世。コーネル大学で生化学、カーネギー・テックで機械工学を学び、テネシー大学にも通ったが、第二次大戦の勃発で陸軍に召集され、斥候として兵役につく。ドイツ軍に捕らえられ、1945年2月13日夜にドレスデン無差別爆撃を被害者の側として体験する。戦後シカゴ大学に学び、一時ジェネラル・エレクトリック社に勤めたあと、フリーランスの作家に転向した。(本書「訳者あとがき」より)

 

『スローターハウス5』の構成、あらすじ

全10章からなる。

1章と10章は主に作者と思われる作家の視点で語られる。

メインの小説部分はビリー・ピルグリムという架空の作者の代理人的存在の半生を、意識が時系列を超えてさまざまな瞬間に強制的に飛んでしまう時間旅行を通して語られる。主要な場面はビリーの第二次世界大戦従軍の日々だが、その中には戦後、トラルファマドール星人に拉致されて本国で動物園の見世物として地球人を展覧する対象として扱われたりもする。

トラルファマドール星人は人間と違って時間のあらゆる瞬間を同時に認識できる能力があり、数々の惑星を見てきたが、地球人のように自由意志なるものがあるものだと勘違いしている生物はいなかったと言う。

 

感想

私は上述で挙げたこの小説の3つの特徴、つまり、

  • 第二次世界大戦従軍体験
  • 時間旅行により過去・未来に瞬間的に旅立ってしまう記述
  • トラルファマドール星人による拉致、そして動物園で展示される人間としての生活

を、すべてヴォネガットの戦争体験PTSDに結びつけて読んでしまいました。

乱暴と言えば乱暴な読み方なのですが、目を通していて陰鬱と言いますか、何かしら病的なものを感じ取ってしまいます。平たく言えばやるせなさでしょうか。

文中には数え切れないぐらい夥しく「そういうものだ。」(So it goes.)と出てきます。誰かが亡くなったとき、ひどいことが起こったとき、必ずこの台詞で締めくくられます。

「そういうものだ。」という、単純で実際には意味をなしていない言葉でしか表出できない感情がもしかしたら戦後ヴォネガットの胸を占有し続けていたのかもしれません。

また、時間旅行者とトラルファマドール星人の考え方は、ヴォネガットの人生訓であると同時に、そうあらねば生きてゆけない状況を体験してきたからなのだとも感じられました。

けして楽しくは読めなかったけれども、ここにはヴォネガットにしか書けない書き方と、ヴォネガットによる間接的な自己表現が含まれているように察せられました。

 

 

次はエンターテインメントに寄った作品を読んでみたいと思います。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。