もりじゅんの読書ブログ

読んだことない人には面白そうと、読んだことある人にはヒントの1つをと、作品を紹介できたらと思います

やまとことばと漢文の系譜 なぜ国民教材であり続けるのか 中島敦「山月記」を考える

私は中学までは主に歴史小説を読んでいたのですが、高校に上がって、いわゆる純文学小説を読むようになりました。

それは、教科書に載っていた中島敦「山月記」や太宰治「富嶽百景」に触れたからというのもあります。

それ以降は書店で自ら本を選び自分の知らなかった世界や自分の持っていない感性を新鮮に読むようになりました。

並行して歴史物も読んではいましたが。

 

そんな一種の原初の読書体験を思い出しているうち、「山月記」を教科書掲載文も合わせて四回目ほどの再読をしてみたくなりました。

文庫本ですと12ページほどの長さです。

約二十年ぶりに、どう読めたか、感じたか、考えたことなどを記してみたいと思います。

 

 

中島敦の略歴

1909年(明治四十二年)東京で生まれる。父は漢文教師、その父も漢学者。東京帝国大学国文科卒業。横浜高等女学校教諭となり国語と英語を教える。並行して創作活動並びに発表を行う。この頃から喘息が激しくなる。1941年(昭和十六年)国語編集書記として南洋庁内務部地方課勤務となり、パラオ島に赴く。翌1942年(昭和十七年)「山月記」「弟子」「李陵」「名人伝」を発表・執筆、実生活では三月に帰京、十一月喘息が悪化し、入院。十二月四日、死去。三十三歳。1948年(昭和二十三年)『中島敦全集』刊行。(新潮文庫『李陵・山月記』年譜より要約)

 

「山月記」のネタバレを回避したあらすじ

才豊かな李徴は若くして試験に合格し官僚となるが、《臆病な自尊心と、尊大な羞恥心》の持ち主で、役職に不満を抱き退官する。誰とも交わらず詩作に打ちこみ、詩人としての名を百年のちに残そうとするが、生活は苦しく痩せ細ってゆく。己の詩才に絶望した李徴は一地方官吏として再就職するが、かつて鈍物として見下していた同輩たちの手足となることは彼の自尊心を傷つける。出張に出たある日、李徴は発狂する。李徴の旧友、監察官となっていた袁傪が旅回り中、ここでは人喰い虎が出る、と忠告される。果たして袁傪は猛虎と出会うが、それは李徴のなれの果てで、李徴の心を持った虎と袁傪は対話する……。

 

「山月記」を考察する

本作はネタバレを危惧する必要のないほど古典的有名作ではあります。

しかしながら読書のダイナミズムは一文一文を自分の意志で読み、体験することによって生じるものだと考えますので、あえて主要なパートについての説明は省きました。

今回読んでみて、思ったことを2点に分けて書いてみたいと思います。

 

なぜ教科書に載り続けるのか

改めて思ったのは、解釈のしようがいくらでもありうる作品だということです。

虎、人間、月、山、それらの語のメタファーから、一文一文の意図について、あえて、「こういう読み方しかない」というような厳密性を持たせず、空に星々を無作為に鏤めたように、ある意味ほったらかしに記述、及び配置されているということです。

ですから、一つの文を通り過ぎるとき、頭の中で例えば3パターンぐらいの可能性を浮かばせられて、そしてまた、次なるキーの文で同じような複数の可能性の中から選び取らされます。

その可能性のかけ算の中から、読者は、各自で李徴が虎になった理由を考えさせられ、その上で人間の心の仕組みや、他者とのあり方について洞察を深めさせられます。

そういう、簡単に「これはこういうことだ」と決めつけるのが難しい物語の書かれ方が、学生期の子供たちの脳にいい負荷を与え、「読み解く」という行為を鍛えるのではないでしょうか。

私自身、四十後半ですが、自分なりに与えた解釈を中島敦に合っているかどうか問いかけても、突き放されているような感覚を覚えました。

深読みするなら、「答えなどというものは存在しない」ということを教えてくれているかのようでした。

 

また、国語教育の中で現場としてどうこの作品が扱われているのかも気になりました。

私自身が受けた授業のスタイルは今ではもう思い出せませんが、このような定点を置くことが難しい小説を、どのように高校生たちに教材として使ってどこまで教員の主観を入れるのか、どこまで生徒たちの主観に委ねるのか、そのような「距離感」が難しいであろうなと。

ですから、この小説を問題文として設問をいくつか配置し、その答えを採点するとき、最大公約数としての正解を用意することは可能かもしれませんが、どこからが誤った解答であると指摘するのは割り切らねばならない、あるいはある意味暴力的な決断をせねばならないのではないかと考えてしまいました。

 

「やまとことば」と漢文 かつてあった日本文語の2つの系譜

私自身がこの「山月記」並びに中島敦の作品を好むのは、彼の書く文章が漢文をベースにしたものであるからかもしれません。

私は思うのですけれど、戦前までは、日本の文章には、2種類の系譜があったように思います。

一つは和歌・俳句、源氏物語や説話集などに見られる、日本独自の言葉遣い、あえて言うなら、「やまとことば」を用いられて書かれた文章。

もう一つは、中国伝来の漢文の文法・形式を用いて、筆記された文章。これは記紀(古事記・日本書紀)や武家の時代の文書などで使われてきました。

明治以降の小説家で言えば、夏目漱石はどちらかというとやまとことば、森鴎外は漢文調、夏目漱石の弟子筋である芥川龍之介は森鴎外側の漢文派、谷崎潤一郎・川端康成はどうなのでしょう、保留で、太宰治はどちらかというとやまとことば、三島由紀夫になると海外文学の流れもだいぶ入ってきて何とも言えませんね……、と、二派に分類することも可能になると思います。

この流れは、戦後は、それぞれ柔らかな文体と、「硬質な文体」と表されているのかもしれません。

現代は、それら両方がちょうどよく合わさった文章が主流のような気がしますね。

みなさんが好む文章はやまとことばに近いのか、漢文に近いのか、どちらでしょう。

 

近代文学史の中で、中島敦は、漢文派の文章で珠玉の短編を遺した数少ない作家です。

硬質で、難解に一見見えるかもしれませんが、その表皮の下には、論理性と、気品ある韻律が潜んでいます。

ここまで漢文体のよさを持って近代文学を作り上げた作家を他には私はちょっと知りません。

それは、中島敦オリジナルの文体となって、現代でも残り続けています。

映画で言えば、他に替えの利かない映像文体を武器にして作品を撮った過去の名匠たちのような風格があります。

 

 

今日は学校における国語教育について、いささか考えさせられました。

学生、つまり相手に何を求めるか。

これは教師と生徒の関係だけでなく、私たち一般人の間でのコミュニケーション論にも結びついてきます。

こういうことに思案を巡らせられるのも、読書の一つのよきところですね。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。