もりじゅんの読書ブログ

読んだことない人には面白そうと、読んだことある人にはヒントの1つをと、作品を紹介できたらと思います

綺麗事だけ視るか?綺麗事以外も視れるか? モーム『月と六ペンス』から考える

はじめに

W・サマセット・モーム『月と六ペンス』を読み終えました。イギリス文学はディケンズをちょっぴり齧った程度。だいぶ考えさせられました。久々に読みごたえのある内容というかテーマ。スタイルと文体は若干古臭い感じはしますが、それでもエンターテインメントと考えさせること両方をやっているし、皮肉な記述もおそらくのちのレイモンド・チャンドラーが影響を受けたはずです。

なるべくネタバレは避けたいのですが、本書を熱く語ることは必ずそのような行為にぶつかることと同義と思われますので、ストーリーを驚きを持ちつつ追いたい方は読んだのちにこの記事に目を通してみてください。本稿ではあらすじ紹介に重きを置かず登場人物の構図から著者の視点、考えを考察するものにしたいので、話の構造を赤裸々に書くものではありませんしまた話はそれほど複雑なものではないのですが、いちおうご考慮願います。

 

 

本文の構成

小説家の「わたし」の一人称で天才画家・ストリックランド(ゴーギャンがモデルと言われている)の半生を描き憶測する。

頭は舞台がロンドン、真ん中の一番長いパートはパリで、最後の2番目に長いパートはタヒチでの見聞が元。

 

人物紹介

ストリックランド

この小説の最重要人物。イギリス・ロンドンでストリックランド夫人と四十歳まで息子と娘を持ち、株式仲買人として世俗を送っていたが、絵を描くことに取り憑かれて家族を捨て単身パリへ行く。貧困にもめげず画業を続ける。自分の絵を描くこと以外関心がないが、ときおり強い性欲に衝き動かされる。マルセイユからタヒチへ。その自然はストリックランドを魅了し、描くべき対象物を明確にしてくれる。業深い死を迎える。

 

ストリックランド夫人

ストリックランドをまるで猫か何かのように大人しいつまらない男としてしか見ていない妻。「わたし」にパリへストリックランドを訪ねてくれと依頼する。ストリックランド死後、その名声が高まっても、彼の作品を「装飾的」としか眺められない。

 

ストルーヴェ

オランダ出身でパリ在住のイタリア的絵画を描く男。装飾的だが実際は退屈な絵しか描けない。しかし審美眼は豊かで、ストリックランドの才能をいち早く見抜く。愛情豊かで世話好きだが、その結果道化者としていつも誰かに笑われている。

 

ブランチ

ストルーヴェの妻。ストリックランドを異常なほど毛嫌いしているが、あることがきっかけで、彼を愛の虜にしようとする。

 

わたし

この小説を書いているという設定の語り手。ロンドン時代にストリックランド夫人に招かれ家庭生活時代のストリックランドの凡庸さを目にしている。パリへ飛び、ストリックランドを興味深く観察し続ける。大戦後、ストリックランド亡きあとのタヒチへ行き、彼のその地での人となりを聞いて回る。自分の実生活は明かさず、観察・思索者に徹している。ストリックランドを理解しようとし続ける人。

 

アタ

タヒチにおけるストリックランドの妻。子供を二人儲ける。「あの子はおれを放っておいてくれる」「おれに食事を作り、子どもの世話をする。おれのいうこともきく。女に求めるものをみんな与えてくれる」とストリックランドに言わしめる。

 

考察、人物関係を中心として

『月と六ペンス』 サマセット・モーム 人物関係図

 

私の主観で、主要登場人物の6名を上記のような対立軸の中で捉えてみました。

ストリックランドとストルーヴェの対比

『月と六ペンス』を読んでいて、この二人の対比について一番深く考えさせられました。

ストルーヴェは、きっと、みなさんの身の周りにいる、害意のない、お調子者といいますか、おっちょこちょいの、人から笑われてそれでみんなを喜ばせるような、喜劇的人物です。しかし、ストルーヴェを悲劇的にもしている大きな要因は、彼の絵の才能と、他人の作品を評価する才能とが、反比例していることです。これはまた、人に尽くす気持ちと、自分を大切にする気持ちが、反比例していることとセットになっているかもしれません。そのちぐはぐの中を、ちぐはぐに生きていくのが、ストルーヴェの人生だと思われます。

ストリックランドが重い熱病のとき、彼は妻が深刻に嫌がっているにも関わらず、死にかけている人間を救わない選択肢などあるだろうか、と、妻を納得させ、献身的な看病を行います。それを受けるストリックランドは、相変わらずストルーヴェを馬鹿にし続けています。ストルーヴェの絵がひどいことも、隠さない。そんなストリックランドを、ストルーヴェは友人として、才能を知っている者として尽くします。理想に生きる人間です。だからこそ彼の描く絵は薄っぺらいのでしょうか。エゴイスティックなものが創作には必要なのでしょうか。

ストリックランドは、ロンドン時代は猫を被ってといいますか、少なくともとても退屈な男でしたが、絵に目覚めてからは、人が変わったように自分に押しつけられるような美のイメージだけを追求していきます。食事もろくに取らず、稼ぎにもほとんど行かず、そのお金の大部分を画材に費やしているようです。こちらは、人間的理想像などない、といいますか、あっても糞だと思っている口で、自分の性欲すら邪魔なものだと考えています。しかし我慢ならなくなるといくらでもその捌け口を見つけます。リアリストのようでありながら、別のものに関心を奪われています。やはり先ほど言った描くべき絵のことだけです。描いている時間・行為の中だけに、彼の存在はある。それ以外のことは心底どうでもいいようです。だからストリックランドをパリ時代気に入る者はいませんでした。嫌なやつです。そう思われてもいっさい気にしない。というか人のことに興味がない。そういう、本能的なものに忠実すぎるところから、彼の死後評価される作品たちは生まれるのでしょうか。美の奴隷となることでようやく異界から解き放たれる何かがあるのでしょうか。

その二人を観察し、間に入って、両者ともと交流を結ぶのがわたしです。わたしは観察者に徹しています。プライベートはきっとあるのでしょうが、そんな葛藤はいっさい話されない。ストルーヴェの凡庸さと情けないぐらいお人好しなところとプライドのなさにうんざりしながらも、彼を助ける。わたしには世間体を気にする必要性があるからです。最低限の情緒は持っているからです。対してストリックランド相手には、わたしは興味を最大限そそられています。憎むときもだいぶあるけれど、無関心ではいられない。どのような頭の中から彼の態度が生まれてくるのか、創作行為が出てくるのか、会話から引き出そうとしてみたり、人に訊ねてみたりする。そして考察します。ストリックランドの精神構造を。それはタヒチの人々との交流と彼が遺した絵を前にして、結実します。美に憑かれてしまった者の潔さと、困難な闘いとに直面します。理想⇔エゴイズムとはまた別の軸からの途方もない力を見ます。ただただ、わたしは観察者であり考察者です。しかしながら、視点の置き方から見て、わたしはストルーヴェの感性よりもストリックランド寄りの感性の持ち主だと何となく感じさせられます。

わたしは彼ら二人だけでなく、それぞれの妻たちにも観察と洞察の目を向けます。6人に入り切らなかったさまざまな脇役たちにも注意を払います。その目から通して私たちが感じるのは、この世には、実にいろいろな物事に拠って生きる人たちの姿、当たり前ですが、人はこんなにも違うんだという事実です。生き方がまるで違う人間の群れでこの地球は覆い尽くされているという感覚です。ではあなたは何に拠って、何を大事にして生きていますか? と訊ねられている気持ちに私たちをさせてくれます。

 

ストリックランド夫人、ブランチ、アタの3人の女

わたしもストルーヴェも他の男たちもストリックランドに振り回されますが、一番困難な役回りをさせられるのがストリックランドの周りにいる女たちです。ただし、例外があります。それは最初に出てくるストリックランド夫人です。彼女は夫の唐突な別れに当初こそ困惑し涙を流しますが、わたしからストリックランドは女に現を抜かしてパリに行ったのではない、絵を描くためだと教えられると、急に無関心になります。それはストリックランド夫人が夫の持つ男の官能の力を感じ取る能力が皆無だったからではないでしょうか。そしてその背後には、ストリックランド夫人が世間体を取り繕うことばかりに長けていたという才があるのではないでしょうか。

ブランチは初めてストリックランドに会ったときから彼を恐れていました。まだ言語化できない何かを感じていました。しかし夫が連れてきた彼を看病するうち、ストリックランドの野性力、官能に巻きこまれてしまいました。ブランチはもう自分の意志を奪われたようにストリックランドと一緒になるしかありませんでした。彼女は悲劇を迎えます。

対してストリックランドが終の棲家としたタヒチ原住民の女、アタは、ヨーロッパの女二人とはまるで態度を別にして彼に接します。ストリックランドを自由にさせ、ストリックランドが求めるものすべてを与えます。これにはつい女嫌いのストリックランドも負けて、結婚生活を送ります。アタもまた、ストリックランド以外の存在すべてから自由だったのではないでしょうか。ストリックランドが絵を描くこと以外のすべてから自由だったように。つまり、二人は似た者同士です。ここに、タヒチ的生き方⇔ヨーロッパ的生き方を見ることも可能かもしれません。

 

最後に

わたしはこの小説を書いているふりをしながら、いくつかの事実を読者に突きつけてきます。先ほども書きましたように、いろんな信念の人間がいるということと並んで、人間の中のいろんな精神要素――それは、理想、世間体、夢、愛、美、エゴ、官能、得体の知れない超人間的なもの、など――が確実に各人の中に存在するということです。それらがせめぎ合って苦しんでいるのが人間の姿だということです。それを見つめる強さがわたしにはあります。そして辛辣な事実も告げてくれます。人は、ある意味醜くあればあるほど他人に喜ばれるということです。そういうものを喜ぶのが人間の性だということです。醜くとは、自己に忠実であるということです。それが進めば進むほど、他者にはその醜さが際立ち、面白がるのだと。そんな私たちの習性を思い知らせてくれるのが、わたしを創作したモームです。

 

 

今回私は新潮文庫の新訳版を読んだのですが、文体について一つ疑問を持ちました。ある揺らぎがあるというか、文章の視点のぶれのようなものを感じたのですが、それが味にもなり、また欠点にもなっていると。総じて、こういうことを感じるのは魅力的だからこそです。それが訳文によってもたらされているものなのか、モームの文体の特徴なのか、私にはこれ一冊読んだだけではわかりませんでした。『月と六ペンス』の文庫だけでも、他に現在新品で3種類の訳で読めるようです。

 

 

 

月と六ペンス (角川文庫 モ 5-2)

月と六ペンス (角川文庫 モ 5-2)

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これらの中からもう一冊読むか、モームのもう一つの代表作とされている『人間の絆』を読むか、今年中にもう一冊同じ作者の作品に目を通してみたいと思います。

 

 

今この記事を書いている最中、町では積雪が残っています。山間部では、大変なところもあるでしょう。くれぐれもお体にお気をつけください。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。