日本人とは、ひいてはその種族が発展させてきた日本文化の本質とはいかなるものだろう? という問いを以前から持っていたのに加え、
「禅」「瞑想」というものに興味を持っていた私は、
『禅と日本文化』という、両者がミクスチャーされたタイトルに魅力を感じ、購入しました。
読書体験の結論から言うと、前半は引きこまれ、後半は突き放された感じがしました。
各章ごとに記述や感想を追いつつ、本書の内容について触れたみたいと思います。
一、禅とは何か
禅とはインドで起こった超越主義的で哲学的な仏教が大地(生活からけして離れることのない)的で元から道教のある中国に伝わり両者が結婚した上で誕生した新たな仏教の一形態である、と、私なりに大拙の説を要約できるかもしれません。
- 禅の修行は、悟りを獲得するためにある。
- 悟りは、生活に新たな意味を発見させる。
- 明らかになる意味は、外側から付与されるものではない。ありのままの現実から生起する。
……と、11まで大拙は簡単に禅についての概要を示してみせます。
二、日本の芸術文化
大拙は日本文化(特に芸術)の中にどう禅の特質を見て取れるかを言います。
「アンバランス、非対称性、一角、貧、さび、わび、簡素化、孤高」への尽きせぬ憧れこそ、日本におけるアートの本質なのだと指摘します。
三、禅と儒学
この章では、中国における禅誕生の背景が主に述べらています。
インド思想の一つである仏教が、儒教・道教の地である中国に渡り、両者が有機的に混交し、宋の時代、「宋学」という哲学を生み出した。
ここら辺は歴史的記述もありなかなか面白かったです。
四、禅と武士・五、禅と剣術Ⅰ・六、禅と剣術Ⅱ
この、禅と剣術の関連性について述べる3つのパートが一番読みごたえがありました。
「剣術は、日本で発達したほかのどんな芸術よりも、禅に接近した」と大拙は述べる。なぜなら、「死の問題に最も切迫したかたちで直接的に関与」するのが剣士の責務であり、ゆえに剣士は生死を超越した禅の悟りの境地と密接な関係を結ぶからである。(訳者解説より)
私はこのくだりで、禅師沢庵と柳生但馬守宗矩、針谷夕雲・小田切一雲の無住心剣が説く「無心の心」(現代風に言えば「意識的な無意識」とでも言えるでしょうか)が心に響きました。
例えば「あの人は覚醒している」と言うとき、私はこれまで意識が意識的に覚醒しているというものだと勘違いしていました。
しかしこの3つの章を読んで、「自覚的に無意識を開放している人こそが覚醒している人」だと認識を改めることができました。
つまり私は禅的には真逆のことに取り組んでいたわけですね。
この発見は個人的には大きかったです。
七、禅と俳句
この章は、松尾芭蕉を始めとする俳人たちと俳句と禅との関連性について述べています。
古池や蛙飛こむ水のおと
の背景には、禅があったとのこと。
芭蕉が禅を学んでいた頃、師が彼を訪ね、「最近、調子はどうかね?」と問いかけた。
芭蕉は「ここ数日の雨があった後、苔がこれまでになく青々と茂っています」と述べる。
師は、芭蕉が禅をどこまで理解したかを測るため、二の矢を放つ。「苔が青く茂るよりも前から、そこにあった仏教とは何か?」
これに対する芭蕉の答えが「古池や……」であったとする。
他にも、各時代の俳人が読んだ俳句が羅列され、それについていちいち大拙は禅的観点から深く一句一句を解説してくれます。
俳句の解説書としても十分楽しめます。
八、禅と茶道Ⅰ・九、禅と茶道Ⅱ・十、利休と茶人たち
日本の自然をミニチュア化した茶室で行われる茶道と、禅との関連性について述べています。
十一、自然愛
この章を読んでいて禅には興味を持っていたものの「自分は禅とは遠いなあ」と挫折感を味わいました。
私たちの自己中心的な心の揺らぎを鎮め、永遠の静寂を経験させてくれる「精神的な同一化」という観念は、魅力的な発想だ。(中略)だが、それは自己流のやり方で謎を解こうとする西洋人の心である。(中略)率直に言って、禅は自然に浸透する「一つの精神」など認めないし、「自己中心的に揺らぐ」心を追い払うことで同一化を実現しようと試みたりもしない。
ならばどうするのかというと、禅は自己が自然となることにより、自然を体験することのようです。
そんなエゴを無にした狂人のような世界に住まう自信が私にはない、というより、なりたくない。
江戸時代の越後の僧・良寛の話も出てきますが、良寛は下着に住む虱を日中取り出して日光浴をさせてあげたり、童女と交じって手毬やお手玉をして遊んだとのこと。
そんな良寛的人生を送りたいかと問われれば、答えはノーです。
おおまかに言えば、ここまでは知性的に大拙は禅と日本文化について述べていたものの、急にラディカルな禅の認識論の世界を持ち出してきます。
即応性の中に禅はある、みたいな。
以前紹介した書籍『禅マインド ビギナーズ・マインド』でもう一人の「鈴木」鈴木俊隆は内面から禅について語っていたのに対し、本書では鈴木大拙は外側から禅について語っていると思います。心の言葉でなく知性の言葉として。
あと、本書の翻訳が素晴らしいことに加え、訳者による「訳者解説」は必読です。
本書本編や鈴木大拙への客観的批判も差し挟まれていて、公正な立場に読者を誘導してくれるからです。
約700ページもの非フィクションを読んだあとなので、しばらくは小説を楽しみたい気分です。
よい意味で感情的になれる、面白い小説を読みたいです。
最後までお読みいただきありがとうございました。