もりじゅんの読書ブログ

読んだことない人には面白そうと、読んだことある人にはヒントの1つをと、作品を紹介できたらと思います

エックハルト・トール『ニュー・アース』 概要と思ったことなどをつらつら

先週帰国した妹と話していて、一番驚いたのは、

「アメリカでは、年齢を訊ねるのはNG、むしろ法的にまずいことになる」

ということでした。

履歴書でも年齢は記さないとのこと。

そのときは、「国が違うと前提となる文化もぜんぜん異なるんだなあ」ぐらいに思った記憶がありますが、今は、

「年齢関係なく、仕事をする能力さえあれば、受け入れられ、そうでなければ、撥ねられる。たとえ老境の方でも、『いま』ビジネスパートナーとして認められればそうなる。それが数ヶ月であろうとも。そのように、『いま』を大切にする国なんだな」

という解釈に変わりました。アメリカの実情に即しているかどうかはわかりませんが。

 

その認識の変化を手伝ったのは、この本を読了したからかもしれません。

 

『ニュー・アース』 エックハルト・トール

 

昨年末から、しばらく新しく読むものはフィクションでないものにしようと思って何冊か併読していたのですが、そのうちの一冊がひどく読みにくい本であり、今日、ようやく本書を読み終えました。他にも本書は各章ずつぐらいにじっくりと読み進めないと読書的効能が薄いと判断したこともあります。こちらは間違いなくいわゆる「スピリチュアル」というジャンルに属する書籍であり、それゆえ、慎重に読むことを求められ、かつ、慎重に語ることを要求されると推測できるので、そのように、じっくりと思ったことなどを書き綴っていきたいと思います。

 

 

エゴについて

本書で最もページを割き、また、最も印象に残るのは、エゴがいかにして人間の精神的機能不全を起こしているかについてです。

著者はエゴが人間にどう関わっていくのかを2つに分けて説明します。1つは中身、1つは構造です。

まず中身とは、エゴが自己同一化していく対象を指します。構造とは、その自己同一化のシステムのことを言います。

例えば、「私は、アメリカの白人女性で、インテルに勤めています。好きなブランドはディオールです。休日はメルセデスに乗って郊外をドライブするのが楽しみです」と自己紹介してきた女性がいるとします。私たちは頷きます。もし、彼女が述べたことが、替えの利く、つまり、執着していないことだったら、彼女は、あまり問題なく人生を通過していることになるでしょう。もし、彼女が、それらのことに、ひどくアイデンティティを覚え、替えの利かない状態だったら、どうでしょう。例えば、彼女の目の前を、彼女のことを意識せずに歩いていた赤の他人二人組が、「ディオールって、ケチ臭い女しか使わんよな」「そうそう。世界で一番いい車はメルセデスしかないと勘違いしてそう」と爆笑しながら去っていったとき、そのことで、憤怒の形相で顔を赤くするほど彼女が傷つけられたとしたら。その女性は、自分の一部、それもかなりの面積を、「ディオール」「メルセデス」に仮託していることになります。そんな悪意のない雑談で彼女のアイデンティティが傷つけられ怒り・失望を覚えるなら、もし「キャリアウーマンってさあ……」と、先ほどと同じように誰かがビジネスの第一線で働く女性を軽視する発言をしたら、同じことが起きるかもしれません。もし女性が特殊な病歴を持ちそのことで苦しみ、その苦しみゆえにその疾病を持っていることをアイデンティティとしていたら……。容易に彼女の人生には不幸と感情の浮き沈みが訪れることは想像つきます。

この「自己同一化」がエゴの問題だと著者はまず唱えます。例えば、「私は慢性疲労症候群で二十年近く寝たきりでした」と訴える人がいるとします。このとき、「私」=「慢性疲労症候群で二十年近く寝たきりでした」という意味になりますが、本当にその人は、「私」なのでしょうか。実際には、厳密には、異なるはずです。その「私」の定義をしているのは「私」なのでしょうが、そのことを見つめている存在が別にいて、それが、その人なのだと著者は言います。そう定義したがる「私」を見つめている私、つまり、純粋意識こそが私なのだと。いや、それは私という世界と分離可能な存在ではない、「大いなる存在」だと著者は言います。

 

エゴが自己同一化して思考・感情という結果として姿を現すものに、「自分は正しく他者は間違っている」「不足感、そして欲望」「恨み」「物語化」「闘争」「優越感」「名声」……と著者は一つ一つ語っていきます。そしてそれらの四苦八苦から逃れるためには、「いまに在る」ことだと著者は説きます。つまり先ほど言った、純粋意識に帰ることだと言います(本書では純粋意識という言葉は用いられておらず、概要としてわかりやすくお届けするために、私があえて用いています)。そして反応しないことだと。観察し続けることだと。

 

ペインボディ

そうやってエゴが活動しているのを助けているのが、身体に過去のネガティブな感情の記憶がエネルギー場として残っている存在として、「ペインボディ」である、と著者は語ります。その無意識のエネルギーがエゴの思考・感情活動を助け、またペインボディに還流されると。

そしてここでもまたペインボディに対処する方法として、「いまに在る」ことだと著者は繰り返します。観察力だと。むしろ「いまに在る」ことを助けるために、エゴやペインボディが人類に課せられたと著者は考えます。

 

その他個人的に印象に残った言葉

  • 思考と気づきは異なる。思考はエゴのもので気づきは「いまに在る」ことから起きる。
  • 出力が入力を決定する(聖書「与えなさい、そうすれば、自分も与えられます」)。

 

感想

前半部分はだいぶ私なりに簡略化して記し、後半部分はほとんど端折って概要を書きましたが、本書の姿勢としては、長い文をしっかりと目を通していくことにより、より理解が深まる、つまり、要約していては「効能」が薄まる、というもののようです。

実際、1ページずつしっかりと読むことによって、私は自分がどれだけエゴの影響を受けていたかを考えさせられました。いろんな物質的な側面、経歴、負の感情と自己同一化していたなと。そういう他者から見たら明らかなことかもしれないことを自覚するのって、なかなか難しい。機会があまりない。無自覚なエゴの汚染に気づき、薄め、手放すことを促す力が本書にはあると思います。また、「いまに在る」ことの難しさも実感しました。私は瞑想の時間を取るようにしているのですが、頭では「こういう状態であるべきだ」とわかってはいるものの、体験としてそのような「いま」にあり続けることはかなり難易度が高い。しかしそれを続けることでしかエゴの罠からは逃れられないと著者は言います。

 

残念なことといいますか、余計な気遣いをするならば、本書のタイトルや副題の「意識が変わる 世界が変わる」や帯の惹句などで、スピリチュアル好きな人は手に取りやすいでしょうけれど、そうでない人は敬遠する造りになっているだろうな、ということです。せっかく無自覚にエゴに支配されていることを指摘する、そしてその解決方法の提示を行っているのに――つまりある意味実用的であるのに――、もったいない。それはペインボディという用語にも言えるかもしれません。こういうフレーズにアレルギーを起こす方は数多くいると推測できます。まあ、どんな分野であれ、無理なものは無理、ってなることってありますよね。野球、サッカー、スポーツそのもの、大谷翔平だって、井上尚弥だって、好きでなかったり興味ない人はいる。ハンバーグやカレーだって、嫌いな人はいるんですから。こういうことは層の問題ですよね。

 

 

「スピリチュアル」分野の本について初めて語ってみましたが、こういうジャンルって、要約や伝えることそのものが難しい。だからこそ書籍という形を取っているのでしょうが。興味を持たれた方がいましたらぜひ読んでみてください。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。