もりじゅんの読書ブログ

読んだことない人には面白そうと、読んだことある人にはヒントの1つをと、作品を紹介できたらと思います

奇書を超えた傑作? 原作と映画はどう違う? アラスター・グレイ『哀れなるものたち』

 

『哀れなるものたち』 アラスター・グレイ 高橋和久訳 ハヤカワ文庫 カバー型帯

 

知人に「面白いよ」と教えられて2月下旬、ヨルゴス・ランティモス監督、エマ・ストーン主演の映画、『哀れなるものたち』を観てきました。

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2時間半近い長さもまったく苦にならず、「久しぶりに面白い映画を観たな」と、帰路の足は弾み、私にはとてもウケた作品でした。

ギリシャ人の監督だけど、原作小説はスコットランド人が書いたらしい。そんな情報を耳にして、映画の内容も手伝って、「原作小説読みたいけれど、なんか読みづらそうな予感がする」と私は思ったのですが、本日読了して、まったく私の予感は的外れであったことがわかりました。すらすら、そして、じっくり読める。ショッキングな内容は相変わらずだけど、良質な手応えが感じられました。

この記事ではアラスター・グレイ著『哀れなるものたち』を中心にして語りますが、最後に原作と映画の違いについても、少しだけ触れたいと思います。

 

 

アラスター・グレイ著『哀れなるものたち』

作者・アラスター・グレイについて簡単に紹介

1934年グラスゴーに生まれる。スコットランドを代表する小説家。画家、劇作家、脚本家としても活躍。美術学校在学中から執筆を始め30年近い年月をかけて完成させた初長編『ラナーク 四巻からなる伝記』(1981)を世に出す。本書の表紙を始めとする挿画も自ら手がけたりする多才を発揮。1992年発表の本書は長編第六作に当たり、ウィットブレッド賞、ガーディアン賞をダブル受賞し、名実ともに彼の代表作。2019年没。

 

『哀れなるものたち』の構成

  • 序文 17ページほど by アラスター・グレイ
  • スコットランドの一公衆衛生官の若き日々を彩るいくつかの挿話 409ページほど by 医学博士アーチボールド・マッキャンドルス
  • 右記著作についての孫、または曾孫宛書簡 44ページ by 医学博士"ヴィクトリア"・マッキャンドルス
  • 批評的歴史的な註 68ページ by アラスター・グレイ

 

といった、マッキャンドルスなる者が自費出版した書籍をアラスター・グレイが編者として再出版するといった形式を取っています。めんどくさいと思われるかもしれませんが、そのめんどくささが面白いことになっています。洗練された中二病とでもいいますでしょうか。

 

『哀れなるものたち』の簡単なあらすじ

ここではネタバレ予防のために、映画でもほぼこちらに材を取っている、主要パート「スコットランドの一公衆衛生官の若き日々を彩るいくつかの挿話」限定のちょっとしたストーリーを書いてみたいと思います。

 

主要登場人物
  • ベラ・バクスター 25歳のとき、ゴドウィン・バクスターによって新たに生まれ変わり、バクスターを父代わりとして、世界旅行をしたりして新たな知識と経験により旧弊でないものの見方を身につけていく女性。
  • ゴドウィン・バクスター 医学博士。解剖学に詳しい。ベラの導き手。
  • アーチボールド・マッキャンドルス 医学博士。ゴドウィンを慕っている。ベラの婚約者になる。この話の語り手。
  • ダンカン・ウェダバーン 弁護士。ベラと駆け落ちしてヨーロッパ・地中海を回る。肉体関係にしか男の尊厳を見出せない男性。
  • ドクター・フッカー 神学博士であり医学博士のアメリカ人。中国での布教を終え帰国中の船旅でベラたちと出会う。アストレーに言わせれば「未熟なオプティミスト」
  • ハリー・アストレー イングランドの産業人。同じく船旅中にベラたちと出会う。現実主義者。
  • ブレシントン将軍 「雷電」の異名を持つ軍人。ベラの最初の夫。ベラを自殺に追いこんだのも彼だが、ベラの帰国後、連れ戻しに訪れる。

 

あらすじ

19世紀末のグラスゴー。異端の科学者・ゴドウィン・バクスターは身投げで死んだ女性の遺体を引き受け、胎児の脳を取り出し、母親に移植し再生し、姪の「ベラ・バクスター」として英才教育を授ける。驚異的なスピードで意識が育つベラ。ゴドウィンの追っかけのマッキャンドルスはベラに惹かれ婚約する。そこへ召し使いたらしのウェダバーンがベラを誘惑しヨーロッパ旅行へと連れ出す。さまざまなものを見、さまざまな人たちと言葉を交わし、ベラは自分を更新――希望と現実を発見――してゆくが、セックスでしか男の威厳を見せられないウェダバーンはどんどん傷ついてゆき発狂する。ベラが話の最後で辿り着いた自分の生き方とは。

 

感想

哀れな男たちしか出てこない

ベラを中心として周囲に存在する男たちは、何らかのものをベラに求めています。

ゴドウィンにしても、理想の女性をベラに見出そうとします。それゆえ奇怪な「ベラ・バクスター」を作り上げる歪んだ哀れな男性像が浮かび上がってきます。

マッキャンドルスにしても、童貞ゆえの無邪気な女性信仰が感じられます。間抜けな哀れさを感じてしまいます。

ウェダバーンも、性の力で屈服できない女性に怖れをなして狂ってしまいます。世間によくいがちな肉体的強さしか強さと認められない男は哀れな状態を迎えます。

ドクター・フッカーは、ベラを口説こうとはしないものの、弱さを感じさせます。

ハリー・アストレーは、クールなんだけれども、ベラを論理でねじ伏せようとするものの、結局ベラの自立した女性となろうとする姿勢の前に跪きます。なんだかんだ言って口説きたいだけなんかい、と、ちょっと滑稽。

最初の夫のブレシントン将軍はゴドウィンと同等かそれ以上に狂っています。ウェダバーンと正反対の弱さのようなものを感じてしまって哀れ。

そう登場人物たちの男を「哀れ」と書いている私ですが、彼らを哀れだと感じられるということは、私の中に彼らの持つ諸要素が存在するということです。この作品的には、私も哀れ。

そんな男たちを見つめるベラはどうか? 「批評的歴史的な註」パートにおいては、ベラの哀れさが炙り出されます。

 

2段階オチが見事というか、衝撃

作内「編集者」としてのアラスター・グレイは、マッキャンドルスの著書を事実と信じている側なので、「序文」と「本文」ではマッキャンドルス寄りの記述になっていて、そういう意味ではトーンはそれほど変わりません。

しかしベラが改名した「ヴィクトリア・マッキャンドルス」として書いた「孫、または曾孫宛書簡」では、まったく違う真実が現れます……。愕然とするほど私は驚かされました。例えば芥川龍之介「藪の中」(黒澤明『羅生門』の原作)では、事件の参考人それぞれがそれぞれの視点で違ったことを話しだします。そのレベルではない、まったく解釈がアーチボールド・マッキャンドルスとヴィクトリア・マッキャンドルスの夫婦の間では食い違い、理解不能になっている関係性までもが浮かび上がり、読者としては「やられた!」と強い衝撃を受けました。見事なオチです。加えて最後の「註」では再びアラスター・グレイの筆となりますので、ヴィクトリア・マッキャンドルスへの批判めいた記述のようにも読めてしまいます。オチをまたひっくり返したわけです。いわば2段階オチのようなものでしょうか。

 

普遍性のある「真実」などない

そのような構成、また、登場人物たちの信念の異なりから導かれる感想は、「この小説の中と同じぐらい、強烈に、我々の住んでいる現実でも、それぞれの真実は食い違っているのではないか?」という疑念です。いやあ、お見事、アラスター・グレイ。訳者の高橋和久氏が解説の末尾に《そこでひとこと大真面目な助言。本書は文庫だからといって、明るい人前で読まないでください。危険です!》と書き残していますが、私もだいぶアブない作品だと思います。私からも書きたいです、これから読まれる方は、元気なときに読んでください、と。

 

ヨルゴス・ランティモス監督の映画『哀れなるものたち』との比較

映画ではわからなかったことが原作を読んでわかる

例えば、映画を一回観ただけではわからなかったことがいくつか私の中でありました。

2つ例に出すと、

  • ベラの頭に入れ替えられた胎児の脳は女児か? 男児か?
  • ベラの子宮から胎児が取り出されたとき、子宮が破壊されその後のベラは妊娠不可能な体となっているのか、否か?

もし原作世界=映画化世界ということならば、その答えは両方とも原作を読んでわかりそうです。胎児は女の子だった可能性が高いです。そしてベラは実際に作品内でのちに3人男の子を産んでいるので、普通の帝王切開だったことがわかります。

 

大きな変更点はないが、小さな違いはある

原作小説の「スコットランドの一公衆衛生官の若き日々を彩るいくつかの挿話」の部分だけを取れば、つまり、映画化されている部分だけを取れば、大筋はそんなに違いはないです。もちろん登場人物の人物像の設定の違いや、起きたこと、起きなかったこと、構成そのものの違い、映画のラストが原作にあるかないかなど、細かい違いを挙げていけばきりがありません。しかし、概ねの世界観は、だいたい一致していると私は思います。

 

原作にはあって映画にはないもの

これは本書の構成のところで触れたように、映画化されなかったパートがあと3つあります。中でも夫・マッキャンドルス目線への痛烈なカウンターであるベラの反論のあるなしが、大きい。これは小説でしか味わえないことなので、ぜひご自身の目で追って体験されることをお薦めします。

 

 

私の体験で言うと、異なるメディアで取り上げられた作品の評価は、最初気に入った方を、のちに追った媒体が上回るということは、滅多にありませんでした。例を挙げると、

  • 『君の膵臓をたべたい』映画は気に入った→原作小説を読んで少し幻滅
  • 『ノルウェイの森』原作小説お気に入り→映画化されたものを観て5分で視聴中止

みたいな感じになります。

ごく稀に、同等レベルまで好きになれることがあります。

  • 『燃えよ剣』役所広司が土方歳三役のドラマでカッコいいと思う→原作小説でもカッコいいと思う
  • 『秒速5センチメートル』アニメ映画をいいと思う→ノベライズされたものもいいと思う

『哀れなるものたち』においては、この後者の、レアケース、映画も、原作小説も、両方面白かった、という私の感想になりそうです。

読む前の予想を遥かに超えた、私にとっては、中二病の作家が書いた奇書に止まらない、傑作に、思えました。

他の方の、映画、小説、両方の感想を聞いてみたいものです。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。