もりじゅんの読書ブログ

読んだことない人には面白そうと、読んだことある人にはヒントの1つをと、作品を紹介できたらと思います

村上春樹「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」(『一人称単数』)を考察する

前回の記事で芥川龍之介「歯車」を取り上げたのは、村上春樹「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」という短編を再読してみたかったからでもあります。

この短編は村上春樹の現最新短編集『一人称単数』(2020)に所収されていて、8つの短編の中でも一番分量があり作品の重みからも中核的部分を担っていると考えられます。

その短編内でキーとして登場する小説が「歯車」です。

今日はそれらを踏まえた上で「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」を再読し、気づいたことを書き記してみたいと思います。

 

 

⒈ 『一人称単数』全体に共通する視点

本作に限らずこの短編集を通して言えるのは、各作品の各一人称で語られる語り手の人物は、作者かもしれない、村上春樹本人であるかもしれないという匂いを漂わせながら、けしてそうではない、というスタンスです。

「自分の個人的な話をこれからします」と注目を引いておいて、創作の話が語られる。

その導入の仕方を「私小説の手法を逆用」しているように私には感じられました。

また、語り手の一人称の人物は、さほど話の中心にはいない、というのも特徴かもしれません。

『神の子どもたちはみな踊る』以降、村上春樹は発表する短編集それぞれに共通するテーマを設けている傾向があり、それは、コンセプトアルバムならぬ「コンセプト短編集」といった観を呈しています。

 

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⒉ 『ウィズ・ザ・ビートルズ』のLPを抱えた少女の幻影

出だしほどなくして、高校の廊下ですれ違ったある一人の少女の思い出が語られます。

彼女は『ウィズ・ザ・ビートルズ』のLPを大事そうに抱えていて、美しい少女で、語り手の「僕」に魅力的な女性と出会ったときに彼だけが聞こえる「小さな鈴の音」を鳴らしてくれる存在です。

憧憬の対象として。

この夢幻的な少女について、この小説の頭と末尾とで、「いただきます」「ごちそうさま」のように対になって中身の食事(読書行為)を蓋をする形で触れられます。

いわば、本編の話へと誘うための第一の通過儀礼――現実世界から虚構世界へと道案内するガイド――のような立ち位置なのかもしれません。

それをへることによって、私たちはすんなりと現実ではない物語の世界へと入れます。

また現実へと戻ることができます。

 

⒊ 彼女・サヨコとその兄

「僕」は『ウィズ・ザ・ビートルズ』のLPを抱えた少女と二度と再会することはなく、実際には一見平凡そうな(あるいは退屈そうな)サヨコという同級生とつき合います。

しかし交際相手のわりには、あまりサヨコについて詳細に語られることはありません。

サヨコの妹も少ししか登場しないけれど、その代わり、デートの約束をした日、会いに行った日曜日の午前中、なぜかサヨコも家族もいない家に一人いた訳あって引きこもっている兄が登場します。

この兄についてはかなり、いや、驚くほどの情報量を持って描かれます。

この「僕」の話だと思って読むとバランスがいささか悪く思われる描写の重点の違いは何なのでしょう。

この小説は、「僕」が主人公ではない、サヨコの兄が第一主人公、サヨコが第二主人公なのだ、ということを指し示しているのではないでしょうか。

 

⒋ 「歯車」

ひょんなことから留守の彼女の邸宅で「僕」はサヨコの兄に芥川の「歯車」を朗読させられます。バッグの中に入っていた現代国語の副読本に掲載されていた五章「赤光」と六章「飛行機」のうち、「飛行機」の方を。

「歯車」が芥川が自殺を前にした遺作であることは前回述べましたが、六章「飛行機」は、《(上略)飛行士は高空の空気ばかり吸っているから、だんだんこの地上の空気に耐えられんようになる》話が出てきます。そしてサヨコの兄が愛用しているマグカップには、第一次世界大戦の複葉戦闘機の絵がプリントされています。いわば、サヨコの兄は芥川側、「歯車」的状態にあることが示唆されます。言い忘れていましたが、サヨコの兄はたまに部分的に記憶が抜け落ちる疾患を持ちその恐怖に怯えて引きこもっています。

対してサヨコは健康そうな女性に思えます。しかし「僕」がサヨコの家から引き揚げてほどなくしてサヨコは電話をかけてきます。「うちに迎えに来ると約束したのは、次の週の日曜日だったでしょう」と(斜体の部分に傍点あり)。十八年後、東京で「僕」とサヨコの兄はふとした偶然で再会し、兄の口から妹が数年前自殺した旨が伝えられます。実はサヨコは兄と同じ疾患を持っていたのではないか。そして「僕」と別れたあと、サヨコは芥川側、「歯車」的状態に向かっていったのではないか。「僕」が東京の大学に出ていって「小さな鈴の音」を鳴らしてくれる素敵な女性と出会ってしまったことを帰郷しサヨコに伝えた夜、サヨコは怒って絶交します。そして十八年後の兄は「僕」に「(上略)サヨコは君のことがいちばん好きやったんやと思う」と言います。しかしおそらくこの小説は「僕」についての話ではないので、「僕」の思いはほとんど描かれません。兄はこのとき自分の疾患がすっかり治ってバリバリ働けていることを話します。私の読み方ですが、この小説は、

  • サヨコ 健康→芥川・「歯車」側に回っていった
  • サヨコの兄 芥川・「歯車」側→健康に回復

という二人の人生の流れの対比を描いているのではないでしょうか。そしてこの二人の違いは、「歯車」六章「飛行機」の「高空の空気⇔地上の空気」のどちらを積極的に吸おうとコミットしていったかによって分かれる、という見方もできます。

 

⒌ 記憶が途切れるとは何か?

再読ですので、あらすじは知っているので、だいぶあちこちに目配せしながら読むことができました。描写の分量のバランス加減なども考慮して。その中で、サヨコの兄の「部分的に記憶が途切れる症状」とは何かについて考えさせられました。

「歯車」という過去芥川によって書かれた病的な作品をすでに持ち出しているのに、なぜまたここで村上春樹はオリジナルなサヨコの兄の病気を書かなくてはならなかったのか。何らかの理由があるに違いないと、一文字一文字慎重にその部分を読んでみました。

仮説1 記憶が途切れる=歴史・過去と繋がれなくなる。

村上春樹は歴史問題にだいぶ意識的な作家です。それを考えると、仮説1のような読み方も可能です。

仮説2 記憶が途切れると責任が取れなくなる。

これは実際は仮説でも何でもなく、文面にもそう書いてあります。サヨコの兄は自分の記憶がない間に憎たらしい人、例えば自分の父親の頭を金槌で叩いたりなんかしてないかと怯えます。自分の行動に責任が持てないことへの恐怖がサヨコの兄の口から語られます。

仮説3 太平洋戦争のことを忘れて歴史責任を引き受けない現代日本のことをこの小説は書いている。

仮説1、2を組み合わせて想像を働かせると、このような結論としての仮説を導き出すこともあながち乱暴な行為ではないのではないでしょうか。

過去・歴史と繋がって責任が持てるようになり、生き残ったサヨコの兄がこの小説の実質的主人公だとすると、村上春樹は現代日本に希望を感じている、もしくは希望を持ちたいというメッセージを表明しているのかもしれません。

逆に「僕」との負の記憶と繋がり切れずに別の男と結婚し子供二人を儲けながらも家族に責任を持たず計画的に睡眠薬を溜めこみ自殺したサヨコは、歴史的反省を行わない日本ということなのかもしれません。

ここらへんは深読みになってしまうので、仮説を補強しようにもできないただの私見になってしまいますね。

 

 

久しぶりに「ネタバレあり」で書いてみたのですが、こちらの方が自分の性に合っているのかもしれません。本作を読まれた方は、どのような読み方でしょうか。また、今回の私の読み方についてどう思われましたでしょうか。読まれてない方は、面白そう、と少しでも思っていただけたら幸いです。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。