もりじゅんの読書ブログ

読んだことない人には面白そうと、読んだことある人にはヒントの1つをと、作品を紹介できたらと思います

村上春樹がチャリティーで朗読した理由 「めくらやなぎと、眠る女」(短編集『レキシントンの幽霊』)

イントロダクション

昨年村上春樹と川上未映子によるインタビュー集『みみずくは黄昏れに飛びたつ』を読んでいて、1995年阪神大震災後、神戸と芦屋での2回のチャリティー朗読会の合間に短編「めくらやなぎと眠る女」が短く書き直され、「めくらやなぎと、眠る女」として朗読されたのを当時書店でバイトしていた川上未映子が会場で聞いていたということを知りました。

『レキシントンの幽霊』の中でも〈めくらやなぎのためのイントロダクション〉としてそういう経緯は書かれており、「(この作品はその地域を念頭に置いて書かれたものだからです)」と言及されているものの、被災者の前で読み上げるわけだから作品そのものにメッセージがこめられているはずだと考え、この短編を再読してみようと思いました。

そのイントロダクションでは元の「めくらやなぎと眠る女」が所収されている短編集『蛍・納屋を焼く・その他の短編』の表題作「蛍」と《対になったもので、あとになって『ノルウェイの森』という長編小説にまとまっていく系統のもの》と語られています。《ストーリー上の直接的な関連性はありません》とも。

 

 

簡単なあらすじ

二十五歳になった「僕」は五年ぶりに故郷に帰った。十一歳下の中学生のいとこは(精神的?)難聴を抱えており、新しい病院での治療のつき添いを伯母に頼まれる。いとこの診察中病院の食堂で庭の風景を見ていると、八年前の別の病院での出来事が浮かび上がる。それは友人に頼まれて同行した彼女のお見舞いだった。友人の彼女はその夏めくらやなぎが繁る丘の家で眠り続ける女の長い詩を書いていた。彼女へのプレゼントのチョコレートは暑熱で溶けてしまっていた。そんな思い出を再生させながら帰りのバスを待っているとき、「僕」はいとこに強く腕を掴まれる。「大丈夫?」そのいとこの助けによって「僕」は立ち上がれる。「大丈夫だよ」と。

 

感想

①何かをしなくてはならなかったはずだ

本作品を読んでいて一番ストレートで(少し話の線からずれるぐらい露骨に訴えられている)読者(少なくとも私)に語りかけてくるのは、帰りのバスを待っているときに考えていた八年前の後悔です。

そしてその菓子は、僕らの不注意と傲慢さによって損なわれ、かたちを崩し、失われていった。僕らはそのことについて何かを感じなくてはならなかったはずだ。誰でもいい、誰かが少しでも意味のあることを言わなくてはならなかったはずだ。でもその午後、僕らは何を感じることもなく、つまらない冗談を言いあってそのまま別れただけだった。そしてあの丘を、めくらやなぎのはびこるまま置きざりにしてしまったのだ。

友だちの彼女が当時受けた胸の手術のあと、どうなったかは、まったく書いてありません(「その友だちは少しあとで死んでしまった」とあります)。しかしイントロダクション通りに読めば、精神的病から自殺したのでは? と憶測してしまいます。また、彼女が語るストーリーによれば、めくらやなぎがはびこる丘で眠る女を救いに行くのは、友だちではないとのこと。ということは、消去法的にその場にいたもう一人の「僕」ということになるかもしれません。「僕」に何らかの責任があったのだと。書かれていない空白の時代に、「僕」は何かをしなくてはならなかったはずだ、との自責の念が書かれているとも読めます。

これを95年当時の朗読会場に置き換えると、作者(村上)は《でもここにだけは、いるわけにはいかないんだ(傍点あり)》という思いで神戸に背を向けたのだけれど、神戸に対して、「何かをしなくてはならなかったはずだ」との自責の念を抱いている、との告白のようにも想像できます。

 

②いとこに救われる

この小説の冒頭18行の出だしパートで、「僕」といとこが互いに深く傷つき、そして「僕」がいとこを少し疎んでいる気配が痛いほど伝わってきます。でも「僕」はいろんな意味でいとこを助けなくてはならない理由が存在し、彼を新しい病院へと連れていきます。もちろん「僕」もそれに抗うつもりはない。できるだけいとこのためになれたらと思い行動します。

そんな助ける、助けられるの関係が、ラスト、唐突に逆転し、いとこに「僕」は助けられます。

いとこが僕の右腕を強い力でつかんだ。(傍点あり)

それをきっかけに、「僕」は罪深い過去の思い出から、現実世界へと、営みを再開することが可能になります。

これを同じく95年当時の朗読会場を想像しながら読むと、被災者たちによって作者(村上)は精神的に逆に助けられた、という告白とも読めます。

「僕」と友達と彼女の間では、互助関係がうまく成立しなかった。いま、「僕」といとこの間では一方的に助け助けられるだけでなく、互助関係が成立している、と。また、しなくてはならないと。

そんな思いで旧短編作(約八十枚ばかり)を四十五枚ほどに短くする過程で、書き改め、読み上げたのではないでしょうか。

読書のいいところは、「間違った」読み方など存在しないことです。どう解釈してもいいという自由を与えられています。その上での、一つの読み方だと。

 

 

作者(村上)は、世間で思われているかもしれない、家にこもって小説を書いていればいいんだ、という社会的デタッチメントの作家というイメージを持たれがちですが、彼の発言や活動を見ると、けしてそうでないことがわかってきます。そういう文脈で見ると、震災後にチャリティー朗読会を行ったこと、そしてこの作品の意味合いがよりわかるのではないかと思って、再読してみました。

 

今夏、『めくらやなぎと眠る女』というタイトルの外国アニメが公開されるようです。

www.eurospace.co.jp

どうやらいろんな村上春樹原作の小説を基にして作られた作品のようですね。

 

関東の暴風は収まったものの、みなさんお体を大切にされてください。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。