もりじゅんの読書ブログ

読んだことない人には面白そうと、読んだことある人にはヒントの1つをと、作品を紹介できたらと思います

誰もがインストールされている「能力主義」の危うさ サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』

 

『実力も運のうち 能力主義は正義か?』 マイケル・サンデル 鬼澤忍訳 ハヤカワ文庫

 

いやあ、面白かったです。どういった種類の面白さかというと、知的丁寧さと思慮深い論考によって、「自分はこれまでだいぶ間違っていたのではないか」と自責すら覚える内省を促す内容であったことです。ですので多くの部分をじっくり読みこまされました。

 

だいぶ内容が厚い本でしたので、各章ずつ、著者が書きたかったことと、たまに私の感想などを交えて、本書を紹介してみたいと思います。

 

 

序章――入学すること

本章では導入(引きつけ)として、2019年にアメリカで起きた不正大学入試事件を説明し、その背後に潜む社会的な能力主義的信念が存在することを浮かび上がらせています。

だが、彼ら(不正に手を染める親)はほかの何かを望んでいた。それは、名門大学への入学が与えてくれる能力主義の威信である。

また、能力主義の行きつく感情を次のように表現します。

われわれは自分自身を自力でつくりあげるのだし、自分のことは自分でできるという考え方が強くなればなるほど、感謝の気持ちや謙虚さを身につけるのはますます難しくなるからだ。こういった感情を抜きにして、共通善に配慮するのは難しい。

 

第1章 勝者と敗者

本書はイギリスでのブレグジット、アメリカでのトランプ当選による労働者階級のポピュリズムへの感情的反動(エリートへの憎悪)を問題視し、それ以前のアメリカ・民主党のオバマ、クリントン両大統領、80年代のレーガン-サッチャー時代にまで遡り、政治家たちの姿勢を批判したことから始まったとも読めます。

技術家主義(テクノクラシー)と市場に優しいグローバリゼーションによる施政が見落としていたもの。それは労働者の社会的敬意だと。

 

第2章 「偉大なのは善だから」――能力の道徳の簡単な歴史

能力主義がもたらす必然として、「人間の主体性に関する心躍る見解」があるが、それは過度な自己責任という考えも与える。

著者は能力主義の歴史を聖書『ヨブ記』からピューリタン、「繁栄の福音」といったキリスト教的観点や、現代の政治家たちの言説から紐解きます。

 

第3章 出世のレトリック

つまり、成功は幸運や恩寵の問題ではなく、自分自身の努力と頑張りによって獲得される何かである。これが能力主義的倫理の核心だ。(中略)だが、これには負の側面もある。自分自身を自立的・自足的な存在だと考えれば考えるほど、われわれは自分より恵まれていない人びとの運命を気にかけなくなりがちだ。

この章では現代でどれほどこの能力主義がまかり通っているかを書きます。

 

第4章 学歴偏重主義――容認されている最後の偏見

大学が与える学位の威信がどれほどありがたがれているか、またオバマ大統領が「賢明(スマート)な」というフレーズをどれほど繰り返し用いたかといったタイトル通りの現状が語られます。

 

第5章 成功の倫理学

この章がいちばんグサッときました。

「能力主義(メリトクラシー)」という用語はイギリスの社会学者・マイケル・ヤングの1958年『The Rise of the Meritocracy』が最初で、その中でヤングは2033年から過去を振り返る形で能力主義が蔓延したらどうなるかというディストピア的世界を描いています。

「現代に特徴的な問題の一つは、能力主義社会のメンバーの中に……自分自身の価値に陶酔するあまり、彼らが統治する人びとへの共感を失ってしまう者がいるということだ」「あまりにも無神経なせいで、力量に劣る人びとでさえまったく不必要に気分を害されている」

天賦の才も、努力できる環境も、「運」なのに、それを自分の手柄にしてしまう。努力自体も、「努力できる遺伝子」が存在すると現今では言われています。それをたまたま持っていなかった人たちを、たまたま持っている人たちが、見下す、というわけです。

この能力主義に代わる二つの考え方が現在存在していると著者は言います。

  • 自由主義リベラリズム
  • 福祉国家リベラリズム

いわば、アメリカの政党で言えば、共和党と、民主党ということなのでしょう。しかしこれらは結局脱能力主義に成功していないと著者は考えます。現実の政治でもそうですね。

私は、本書を読んで、自分自身が無自覚にどれほど能力主義の信念を持っていたか、学歴偏重主義者だったか、また、主義としては福祉国家リベラリズムであったことを思い知らされました。それらを当然のことと考えていましたが、著者により、それらが産む弊害にようやく思いをいたすことができました。自覚してすぐにどうこうならないほど染みついているとも感じますが、気に留められることは重要です。

 

第6章 選別装置

この章では高等教育での能力主義の歴史・現状と、それへの解決案を示しています。

勝者も受験勉強により精神的に傷を負い、敗者も屈辱感を抱える。著者は入学をどれだけ公平にするかでなく、ある程度以上の絞りこみはくじ引きのような「運」の要素を持たせることによって、名門大学入学や学位が持ってしまう過度な威信を下げる効果を期待します。「何だかんだで運なんだよな」的な感覚を共有できるのではないかと。

それと並行して、大学とは別の職業訓練学校などへの補助金を大幅に増やすべきだと著者は考えます。それにより充実するとともに、威信が上がるわけです。

 

第7章 労働を承認する

マイケル・ヤングは前出の著書で次のような意味のことを書いています。

「能力をあまりに重んじる社会で、能力がないと判定される」のは辛い。「底辺層の人々が、道徳的にこれほど無防備なまま取り残されることはかつてなかった」

いかなる労働においても社会的尊厳を回復する必要があるのですが、現在二つの政治方針案があると言います。

一つが低賃金労働者への賃金補助(給与税の対極)と労働市場の創出。

一つが金融活動への課税。金融は実質生産していないという観点からです。

政治・経済にはだいぶ私は疎いので、これらの策がどれほど現実的でどのくらい「共通善」を取り戻すのかはわかりませんが、教育・労働においてはっきりとした代案を示せるのは勇気がいるし「生産」していることになります。私としては著者を讃えざるをえません。

 

結論――能力と共通善

機会の平等に代わる唯一の選択肢は、不毛かつ抑圧的な、成果の平等だと考えられがちだ。しかし、選択肢はほかにもある。広い意味での条件の平等である。それによって、巨万の富や栄誉ある地位には無縁な人でも、まともで尊厳ある暮らしができるようにするのだ――社会的に評価される仕事の能力を身につけて発揮し、広く行き渡った学びの文化を共有し、仲間の市民と公共の問題について熟議することによって。

これだけが「結論」なわけではないのですが、本書の文脈の中で読むと、この個所が響いてきます。この訴えが、現実的なものか、夢想的なものか、読む者が判断するべきことなのでしょう。「共通善」という現代の政治論議では排除されてきたものを考え続けてきた著者の意欲とひたむきさが印象的です。

「神の恩寵か、出自の偶然か、運命の神秘がなかったら、私もああなっていた」。そのような謙虚さが、われわれを分断する冷酷な成功の倫理から引き返すきっかけとなる。能力の専制を超えて、怨嗟の少ない、より寛容な公共生活へ向かわせてくれるのだ。

 

 

一つだけ断っておくと、サンデルは能力主義の全否定や努力を認めていないわけではないのです。能力主義に100%振り切った場合(振り切っている現状)、こういうことが起きているわけですよと注意を喚起しています。

 

次はモーム『人間の絆』を読んでみたいと思います。

上下巻で読みごたえがありそう。

 

今週からは気温が回復するみたいです。少しずつ体を慣れさせていきたいものです。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。