気になった箇所
上善は水の若(ごと)し。水は善く万物を利して争わず、衆人の悪(にく)む所に処(お)る、故に道に幾(ちか)し。
居は地を善しとし、心は淵を善しとし、与(まじわ)るは仁を善しとし、言は信を善しとし、正は治を善しとし、事は能を善しとし、動は時を善しとす。
夫(そ)れ唯(た)だ争わず、故に尤(とが)無し。(訓読文)
最上の善なるあり方は水のようなものだ。水は、あらゆる物に恵みを与えながら、争うことがなく、誰もがみな厭だと思う低いところに落ち着く。だから道に近いのだ。
身の置きどころは低いところがよく、心の持ち方は静かで深いのがよく、人とのつき合い方は思いやりを持つのがよく、言葉は信(まこと)であるのがよく、政治はよく治まるのがよく、ものごとは成りゆきに任せるのがよく、行動は時宜にかなっているのがよい。
そもそも争わないから、だから尤(とが)められることもない。(訳文)
(第八章)
ギリシャ・ローマ神話や、古事記・日本書紀、源氏物語や今昔物語などのクラシックなコンテンツをたまに読みたくなることありませんか?
私もどうやらその時期に入ったようで、そういうものが揃ってそうな岩波文庫の『老子』を購読してみました。
『老子』を選んだのは、いわゆる老荘思想に興味があり、また、共感できるものを感じていたからです。
訳文だけを読めば、さらっと読み終えられてしまいます。
今日は本書について語ってみたいと思います。
岩波文庫版『老子』の構成
目次
凡例
老子(第一章―第八十一章)
解説
索引
あとがき
本文「老子」は、各章訳文、訓読文、原文、注の順に分割されて配置されています。
私としては、訳文を読んで注目すべきと思った章だけ訓読文などを追ってみました。
『老子』の思想とは何か
『老子』は「道」篇と「徳」篇に分かれているらしく、合わせて「道徳」と言います。
「道」は《柔弱に活動して根元へと回帰していく》とされます。
「徳」は「道」を活かして生活や政治に振る舞うべき姿のことを言っているような気がします。
これでは何のことかさっぱりわかりませんので、一番「道」を表しているであろう第二十一章から訳文をまるまる引用してみたいと思います。
大いなる徳を持つ人のありさまは、道にこそ従っているのだ。
道というものは、おぼろげでなんとも奥深い。おぼろげでなんとも奥深いが、その中になにか形象がある。おぼろげでなんとも奥深いが、その中になにか実体がある。奥深くてうす暗いが、その中になにか純粋な気がある。その純粋な気はまことに充実していて、その中に確かな働きがある。
現今から古にさかのぼっても、そのように名づけられたもの、つまり道はずっと存在しつづけており、(道の活動の中に)あらゆるものの始まりが見てとれる。わたしは何によってあらゆるものの始まりがこのようだと分かるのかというと、このこと――道がずっと存在しつづけ、玄妙な生成の活動を行っていることによってなのだ。
同じく「徳」を言い表していそうな第六十三章から引きます。
なにも為さないということを為し、なにも事がないということを事とし、なにも味がないということを味とする。
小さいものを大きいものとして扱い、少ないものを多いものとして扱う。怨みには徳でもって報いる。難しいことは、それが易しいうちに手がけ、大きいことは、それが小さいうちに処理する。世の中の難しい物事はかならず易しいことからおこり、世の中の大きな物事はかならず些細なことからおこるのだ。そういうわけで聖人は、いつも大きな物事は行なわない。だから大きな物事が成しとげられるのだ。
(後略)
また、『老子』は同時代、あるいは先代にすでに存在していた儒教を大いに批判します。
《学を絶たば憂い無し》有名な文句ですね。「学」は学問の他、礼儀作法や徳育なども含まれ、孔子一派へのカウンターのようなものを感じてしまいます。
老子という人物
そんな『老子』を書いたとされる老子はどんな人物なのでしょう。
実在しない説などもあったようですが、一人か複数人かは別としても、実在はしているようです。
前漢の歴史書『史記』では、三人の候補者が書かれているみたいです。
一番有力なのが、「老耼」。姓は李、名は耳、字は耼。老子とは号のようです。楚の国の人で、周の公文書を保管する部署の役人をしていましたが、辞任し旅に出、関所を通りかかったとき、尹喜という人物に請われ、書物を著す。これが『老子』。正式名称は、『老子道徳経』と言うらしいです。
感想
無為自然という言葉がありますが、のんびりと自分を急かさない気持ちになれました。
繰り返しになりますが、訳文オンリーで目を通すなら、さらっと半日で読み終えられます。
最後までお読みいただきありがとうございました。