もりじゅんの読書ブログ

読んだことない人には面白そうと、読んだことある人にはヒントの1つをと、作品を紹介できたらと思います

児童文学の名作『モモ』のご紹介 なぜ読み継がれるのか?

昨年前半、遅ればせながらジブリ作品をたくさん借りて観てみました。宮崎駿を始めとするアニメ映画の作り手たちが児童文学を愛していることを知り、自分も読んでみようと思いました。

 

 

そこへ何を読もうか考えていたところ、YouTube動画でアバタローさんの次のような動画がサジェストされました。

 


www.youtube.com

 

面白そう。テーマも気になる。読んでみたい。

すかざずAmazonでほしいものリストに入れていた別の書籍と一緒にポチりました。

 

モモ ミヒャエル・エンデ 岩波少年文庫

 

2023年で原書刊行50年ですから、1973年発表ということになりますね。

その作品がいまだに書店に置かれ手に取られ、動画でも取り上げられるということは、ただならぬ魅力があるに違いありません。

私の感想や、「現代でもどうして読み継がれるのか?」についてお話ししてみたいと思います。

 

 

著者・ミヒャエル・エンデ

エンデはドイツの児童文学作家です。1929年に南ドイツのガルミッシュに生まれました。父はシュールレアリスムの画家でした。ミュンヘンの演劇学校を出てしばらく俳優をしていましたが、子供のための本を書こうと1960年、第一作『ジム・ボタンの機関車大旅行』を発表します。これはドイツ児童文学賞を得て、早くも世界的に知られる作家となりました。1962年、『ジム・ボタンと13人の海賊』を発表。1971年からローマ近郊に居を移し、1973年、第3作の本書『モモ』を世に出します。再びドイツ児童文学賞を受賞。その後『はてしない物語』などを発表します。1995年、65歳で死去。(「訳者のあとがき」などを参考)

 

あらすじ

モモ 時間どろぼうと、ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語(扉より)

 

大都会の南の外れにある、ローマのコロッセウムを彷彿とさせる円形劇場の廃墟に、ある日モモという女の子は住みつきます。

近辺の住人たちは、みすぼらしい格好をしたモモにいろんなものを差し入れして助けます。

そのうち、住人たちは、モモが素敵な性質を持っていることに気がつきます。

それは、モモにお話を聞いてもらうと、とても嬉しくなる、つまり、モモは「聞き上手」だったのです。

モモがそばにいて一緒に遊ぶだけで、子供たちはいつもより自分たちがずっと楽しいことをしているように思えました。

そんなモモと友達になった人たちの生活は永遠に続くようでしたが、灰色の男たち――時間どろぼう――が現れます。

彼らは、人間から、一秒でも多く時間を盗み出して、時間貯蓄銀行に蓄えようとします。

それはどういうことかというと、催眠術にかけるように人々に時間の節約を強制させる力を持っていたのです。

モモの友達たちもまったく性格が違ってしまったように、そそくさと時間の節約ばかりを考えるようになりました。

モモは灰色の男たちから要注意人物として追われ、賢者の亀・カシオペイアとともに時間の国に旅立ちます。友達たちの時間を取り戻して彼らを助けるためにも……。

 

感想

読み終わってから半年近くたつのですが、これまで読んだ本では味わったことのない不思議な読後感でした。それは「このままでいいのか?」と切実に私に問うてきたように思えました。「あなたは、灰色の男ですか? モモですか?」「モモが現れたあとの住人たちみたいですか? それとも灰色の男たちが現れたあとの住人たちみたいですか?」と。今の自分を常に見直せと、言われているみたいでもありました。

 

タイパ、という言葉が誕生してから時間がたちますが、時間の節約とは何でしょう? そもそも私たちにとって時間とは何でしょう? エンデがこの作品でテーマとしていること、伝えたかったメッセージはどんなものなのでしょう?

 

私が『モモ』から翻訳していいのであれば、「時間=生命、それを感じ取れる器官は心」とでもいうものがそれかもしれません。

時間、それも時計では計測できない生命が本来持つ目に見えない心の時間が失われたとき、それは見かけは生きているようでも人間としては死んでいるようなものだ、と、エンデはこの物語を通して語りかけているように私には思えました。

 

物語上ではそうなるのかもしれませんが、では現実の私たちの日常に当てはめるとどういうことになるのでしょう。私たちは少なくとも児童の頃は、大人になってからよりもはるかに気楽で自由で心がウキウキするような「時間」を持っていました。それが成長してゆくにつれて、社会的制約を引き受けるようになっていくほど、灰色の男たち――時間どろぼう――の搾取を受け、あるいは灰色の男たち側に回る、という役割が増えていきます。自然、時計では計れない私たちの内的な奔放なる歓喜の時間は激減していきます。それをさらに加速させるのが社会などのシステムによる単一化と機械化やテクノロジーの発展によりいや増す時間効率思想です。それを発表時の1973年ですでにエンデは見抜いていました。

当時と比べて、現2024年の世界はどうでしょう。電力の効率的で莫大な生産が可能になり、機械化はますます進み、コンピューターが誕生・普及し、またインターネットによる情報革命が起こり、私たちはスマホ抜きでの生活が無理な状態にあり、70年代後半を知っている私にも、明らかに「心の時間」を大切にできる環境に身を置くことが難しい時代に入っていると痛感します。それへのカウンターとして「マインドフルネス瞑想」が声高に取り上げられる、あるいは取り上げる必要性が生じてきたという背景も理解できます。エンデは『モモ』の中でモモの親友の一人の掃除夫・ベッポじいさんに次のように語らせます。

「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな? つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」

この瞑想的「今、ここ、という瞬間に集中する」考えの披露から、エンデの東洋思想への学びが想像できます。

当時のエンデも内的時間を回復するために、社会や機械化のせいだけにするのではなく、個々人の認識を改めることと自己努力の必要性を感じていたのではないでしょうか。

まず、私たちが現実的に時間どろぼうに時間を盗まれている、ある部分では、他者から時間を盗む時間どろぼうになっている、その自省の認識を始め、そこからスタートしませんか? 次の一歩のことだけに集中しよう。そうやって心の時間を取り戻そう。私の耳には作者・エンデのそのような言葉が聞き取れました。みなさんにはどう読めるでしょう。

 

もう一つ、大事なポイントと思われるのが、モモは、人の話を聞くのがうまい、ということです。

果たして「本当の聞き上手」とはどんな人でしょう。私たちはモモみたいに心を空にして相手の話に耳を傾けられるでしょうか。モモは人の話を聞いている最中、けして自分の意見や判断を差し挟みません。鵜呑みにすることもしません。否定も肯定もなく、ただ聞いているだけです。これがどれだけ難しいことか、私たち一人一人が己に問うてみたらわかることです。そういう態度を取れたとき、話を聞いてもらっている人は心の底から嬉しくなります。そして打ち明けた悩みのことなどどうでもよくなってしまって、場合によっては忘れてしまって、また次のことを考えられます。現代人のあなたたち、そういう人の話の聞き方をできていますか?  とのエンデの心の声が届くような気がします。

 

私が「感想」で書いたことはただ私だけの『モモ』から引き出した知恵であり、読者の数だけ豊潤な学びが本書には詰まっていると思います。そう感じさせる読み取り方が可能な児童文学です。昨年公開されたアニメ映画・宮崎駿『君たちはどう生きるか』のように。

 

 

まとめ

  • 「時間=生命、それを感じ取れる器官は心」時計で計れる時間と時計で計れない心の時間がある。
  • 便利さに頼る余り時間どろぼうにそのような心の時間を盗まれていませんか? またあなたが誰かの時間どろぼうでありませんか?
  • 盗まれている心の時間を取り戻す努力を始めませんか?
  • 本当に心を空にして人の話をうまく聞けていますか?

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました。