もりじゅんの読書ブログ

読んだことない人には面白そうと、読んだことある人にはヒントの1つをと、作品を紹介できたらと思います

弓の道におけるドラゴンボール的寓話 中島敦「名人伝」

たまに発作のように中島敦の小品を読みたくなるときがあります。小品といっても美しく磨かれた珠のような佳作。佳作というか名作。無駄なく、欠けているものもない構成美と、「何々である」と野暮な解説をさせる気も失せる深淵さ。謙虚さ。そんなものを湛えている彼の作品と触れ合いたくなってしまいます。

以前「山月記」を取り上げたのですが、今日は「名人伝」を読んでみました。

 

mori-jun.hatenablog.com

 

やっぱり面白い。読後感も上品な余韻の残り方。「名人伝」について、少しお話ししてみたいと思います。

 

 

「名人伝」の簡単な紹介

紀昌は、天下一の弓の名人になろうと思った。飛衛に弟子入りする。飛衛は百歩を隔てて柳葉を射るに百発百中するという達人。飛衛は紀昌に命じる、まず瞬きせざることを。紀昌は機織り台の下に潜りこみ、妻が動かす器械の上下するのを凝視し続けた。二年ののち、熟睡しているときでも紀昌の目は見開かれ、彼の目の睫毛と睫毛の間に小さな蜘蛛の巣ができた。

紀昌は飛衛に報告すると、次には、視ることを学べと言う。紀昌は一匹の虱を頭髪で結び、窓にかけ、睨み続けた。三月後、その虱は蚕ぐらいの大きさに見えた。三年後、虱は馬のような大きさに見えていた。表に出ると、人は高塔のようであり、馬は山であり、豚は丘みたいで、鶏は城塞のようだった。そんなに大きく見えるのだから、窓に吊るした虱を射損じるわけはない。矢は見事に虱の心の臓を貫いて毛も切れなかった。

紀昌は師に報告する。それからようやく射術の奥儀秘伝が授けられた。……このように弓の名人を目指す紀昌の辿り着いた境地とは。

 

弓における「ドラゴンボール」的成長

このように、紀昌は単純で長期間にわたる過酷な特訓を行って、弓の名手として次々とハードルを克服してゆくのですが、それがちょっと漫画の「ドラゴンボール」っぽくていいんですよね。悟空がヤムチャを乗り越え、亀仙人に敗れ、亀仙人の下で修業し、カメハメハを身につけ、いろんな強豪に勝ったり負けたりまた新たな修行をして成長してゆくドラゴンボールスパイラル的要素がちょっとある。いや、それを超えているかもしれません。だって、ドラゴンボールでは、闘わずに相手を視ただけで倒す、とか、次元の違った肉体戦でない戦闘に移行するとか、ないはずですから(私の見ていないところで、もしそういうのがあったらすみません)。

 

オチが素敵

ネタバレになるのでその後紀昌がどんな修行をし、どんな腕前になってゆくのかとか、そういう展開については言えないのですが、紀昌が本当の弓の名人として帰ってきたときと、オチになっている晩年のエピソードが、いいんですよね。

紀昌は弓を携えていない理由を訊かれ、こう答えます。

至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなしと。

この返答もカッコいいのですが、この短編が完全に老荘思想が根底にあることを指し示してもいて、スマート。そして引用はしませんが、だいぶファンタジーです、作品世界そのものが。純東洋ファンタジー。何でもありの世界です。

ラストの晩年のエピソードでのオチが秀逸すぎて、そのよさは読んでいない方には伝えにくいのですが、「何かを極める」ということが結局何を意味しているのか、考えさせられます。究極まで行くとどういうことになるのか。ぜひご自身の目でご覧になってみてください。

 

 

今週コロナワクチンを接種したのですが、ワクチンを打ったのか、コロナにわざわざかかりに行ったのか、わからないような発熱をしてしまいました。もう個人的にはワクチンはいいかな、という結論に達しています。

 

そんなわけで取りかかっている本の読書もほとんど進まず、中島敦先生に逃げてしまいました。今は熱が落ち着いているので、ぼちぼち続きを読んでみたいと思います。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

村上春樹がチャリティーで朗読した理由 「めくらやなぎと、眠る女」(短編集『レキシントンの幽霊』)

イントロダクション

昨年村上春樹と川上未映子によるインタビュー集『みみずくは黄昏れに飛びたつ』を読んでいて、1995年阪神大震災後、神戸と芦屋での2回のチャリティー朗読会の合間に短編「めくらやなぎと眠る女」が短く書き直され、「めくらやなぎと、眠る女」として朗読されたのを当時書店でバイトしていた川上未映子が会場で聞いていたということを知りました。

『レキシントンの幽霊』の中でも〈めくらやなぎのためのイントロダクション〉としてそういう経緯は書かれており、「(この作品はその地域を念頭に置いて書かれたものだからです)」と言及されているものの、被災者の前で読み上げるわけだから作品そのものにメッセージがこめられているはずだと考え、この短編を再読してみようと思いました。

そのイントロダクションでは元の「めくらやなぎと眠る女」が所収されている短編集『蛍・納屋を焼く・その他の短編』の表題作「蛍」と《対になったもので、あとになって『ノルウェイの森』という長編小説にまとまっていく系統のもの》と語られています。《ストーリー上の直接的な関連性はありません》とも。

 

 

簡単なあらすじ

二十五歳になった「僕」は五年ぶりに故郷に帰った。十一歳下の中学生のいとこは(精神的?)難聴を抱えており、新しい病院での治療のつき添いを伯母に頼まれる。いとこの診察中病院の食堂で庭の風景を見ていると、八年前の別の病院での出来事が浮かび上がる。それは友人に頼まれて同行した彼女のお見舞いだった。友人の彼女はその夏めくらやなぎが繁る丘の家で眠り続ける女の長い詩を書いていた。彼女へのプレゼントのチョコレートは暑熱で溶けてしまっていた。そんな思い出を再生させながら帰りのバスを待っているとき、「僕」はいとこに強く腕を掴まれる。「大丈夫?」そのいとこの助けによって「僕」は立ち上がれる。「大丈夫だよ」と。

 

感想

①何かをしなくてはならなかったはずだ

本作品を読んでいて一番ストレートで(少し話の線からずれるぐらい露骨に訴えられている)読者(少なくとも私)に語りかけてくるのは、帰りのバスを待っているときに考えていた八年前の後悔です。

そしてその菓子は、僕らの不注意と傲慢さによって損なわれ、かたちを崩し、失われていった。僕らはそのことについて何かを感じなくてはならなかったはずだ。誰でもいい、誰かが少しでも意味のあることを言わなくてはならなかったはずだ。でもその午後、僕らは何を感じることもなく、つまらない冗談を言いあってそのまま別れただけだった。そしてあの丘を、めくらやなぎのはびこるまま置きざりにしてしまったのだ。

友だちの彼女が当時受けた胸の手術のあと、どうなったかは、まったく書いてありません(「その友だちは少しあとで死んでしまった」とあります)。しかしイントロダクション通りに読めば、精神的病から自殺したのでは? と憶測してしまいます。また、彼女が語るストーリーによれば、めくらやなぎがはびこる丘で眠る女を救いに行くのは、友だちではないとのこと。ということは、消去法的にその場にいたもう一人の「僕」ということになるかもしれません。「僕」に何らかの責任があったのだと。書かれていない空白の時代に、「僕」は何かをしなくてはならなかったはずだ、との自責の念が書かれているとも読めます。

これを95年当時の朗読会場に置き換えると、作者(村上)は《でもここにだけは、いるわけにはいかないんだ(傍点あり)》という思いで神戸に背を向けたのだけれど、神戸に対して、「何かをしなくてはならなかったはずだ」との自責の念を抱いている、との告白のようにも想像できます。

 

②いとこに救われる

この小説の冒頭18行の出だしパートで、「僕」といとこが互いに深く傷つき、そして「僕」がいとこを少し疎んでいる気配が痛いほど伝わってきます。でも「僕」はいろんな意味でいとこを助けなくてはならない理由が存在し、彼を新しい病院へと連れていきます。もちろん「僕」もそれに抗うつもりはない。できるだけいとこのためになれたらと思い行動します。

そんな助ける、助けられるの関係が、ラスト、唐突に逆転し、いとこに「僕」は助けられます。

いとこが僕の右腕を強い力でつかんだ。(傍点あり)

それをきっかけに、「僕」は罪深い過去の思い出から、現実世界へと、営みを再開することが可能になります。

これを同じく95年当時の朗読会場を想像しながら読むと、被災者たちによって作者(村上)は精神的に逆に助けられた、という告白とも読めます。

「僕」と友達と彼女の間では、互助関係がうまく成立しなかった。いま、「僕」といとこの間では一方的に助け助けられるだけでなく、互助関係が成立している、と。また、しなくてはならないと。

そんな思いで旧短編作(約八十枚ばかり)を四十五枚ほどに短くする過程で、書き改め、読み上げたのではないでしょうか。

読書のいいところは、「間違った」読み方など存在しないことです。どう解釈してもいいという自由を与えられています。その上での、一つの読み方だと。

 

 

作者(村上)は、世間で思われているかもしれない、家にこもって小説を書いていればいいんだ、という社会的デタッチメントの作家というイメージを持たれがちですが、彼の発言や活動を見ると、けしてそうでないことがわかってきます。そういう文脈で見ると、震災後にチャリティー朗読会を行ったこと、そしてこの作品の意味合いがよりわかるのではないかと思って、再読してみました。

 

今夏、『めくらやなぎと眠る女』というタイトルの外国アニメが公開されるようです。

www.eurospace.co.jp

どうやらいろんな村上春樹原作の小説を基にして作られた作品のようですね。

 

関東の暴風は収まったものの、みなさんお体を大切にされてください。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

誰もがインストールされている「能力主義」の危うさ サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』

 

『実力も運のうち 能力主義は正義か?』 マイケル・サンデル 鬼澤忍訳 ハヤカワ文庫

 

いやあ、面白かったです。どういった種類の面白さかというと、知的丁寧さと思慮深い論考によって、「自分はこれまでだいぶ間違っていたのではないか」と自責すら覚える内省を促す内容であったことです。ですので多くの部分をじっくり読みこまされました。

 

だいぶ内容が厚い本でしたので、各章ずつ、著者が書きたかったことと、たまに私の感想などを交えて、本書を紹介してみたいと思います。

 

 

序章――入学すること

本章では導入(引きつけ)として、2019年にアメリカで起きた不正大学入試事件を説明し、その背後に潜む社会的な能力主義的信念が存在することを浮かび上がらせています。

だが、彼ら(不正に手を染める親)はほかの何かを望んでいた。それは、名門大学への入学が与えてくれる能力主義の威信である。

また、能力主義の行きつく感情を次のように表現します。

われわれは自分自身を自力でつくりあげるのだし、自分のことは自分でできるという考え方が強くなればなるほど、感謝の気持ちや謙虚さを身につけるのはますます難しくなるからだ。こういった感情を抜きにして、共通善に配慮するのは難しい。

 

第1章 勝者と敗者

本書はイギリスでのブレグジット、アメリカでのトランプ当選による労働者階級のポピュリズムへの感情的反動(エリートへの憎悪)を問題視し、それ以前のアメリカ・民主党のオバマ、クリントン両大統領、80年代のレーガン-サッチャー時代にまで遡り、政治家たちの姿勢を批判したことから始まったとも読めます。

技術家主義(テクノクラシー)と市場に優しいグローバリゼーションによる施政が見落としていたもの。それは労働者の社会的敬意だと。

 

第2章 「偉大なのは善だから」――能力の道徳の簡単な歴史

能力主義がもたらす必然として、「人間の主体性に関する心躍る見解」があるが、それは過度な自己責任という考えも与える。

著者は能力主義の歴史を聖書『ヨブ記』からピューリタン、「繁栄の福音」といったキリスト教的観点や、現代の政治家たちの言説から紐解きます。

 

第3章 出世のレトリック

つまり、成功は幸運や恩寵の問題ではなく、自分自身の努力と頑張りによって獲得される何かである。これが能力主義的倫理の核心だ。(中略)だが、これには負の側面もある。自分自身を自立的・自足的な存在だと考えれば考えるほど、われわれは自分より恵まれていない人びとの運命を気にかけなくなりがちだ。

この章では現代でどれほどこの能力主義がまかり通っているかを書きます。

 

第4章 学歴偏重主義――容認されている最後の偏見

大学が与える学位の威信がどれほどありがたがれているか、またオバマ大統領が「賢明(スマート)な」というフレーズをどれほど繰り返し用いたかといったタイトル通りの現状が語られます。

 

第5章 成功の倫理学

この章がいちばんグサッときました。

「能力主義(メリトクラシー)」という用語はイギリスの社会学者・マイケル・ヤングの1958年『The Rise of the Meritocracy』が最初で、その中でヤングは2033年から過去を振り返る形で能力主義が蔓延したらどうなるかというディストピア的世界を描いています。

「現代に特徴的な問題の一つは、能力主義社会のメンバーの中に……自分自身の価値に陶酔するあまり、彼らが統治する人びとへの共感を失ってしまう者がいるということだ」「あまりにも無神経なせいで、力量に劣る人びとでさえまったく不必要に気分を害されている」

天賦の才も、努力できる環境も、「運」なのに、それを自分の手柄にしてしまう。努力自体も、「努力できる遺伝子」が存在すると現今では言われています。それをたまたま持っていなかった人たちを、たまたま持っている人たちが、見下す、というわけです。

この能力主義に代わる二つの考え方が現在存在していると著者は言います。

  • 自由主義リベラリズム
  • 福祉国家リベラリズム

いわば、アメリカの政党で言えば、共和党と、民主党ということなのでしょう。しかしこれらは結局脱能力主義に成功していないと著者は考えます。現実の政治でもそうですね。

私は、本書を読んで、自分自身が無自覚にどれほど能力主義の信念を持っていたか、学歴偏重主義者だったか、また、主義としては福祉国家リベラリズムであったことを思い知らされました。それらを当然のことと考えていましたが、著者により、それらが産む弊害にようやく思いをいたすことができました。自覚してすぐにどうこうならないほど染みついているとも感じますが、気に留められることは重要です。

 

第6章 選別装置

この章では高等教育での能力主義の歴史・現状と、それへの解決案を示しています。

勝者も受験勉強により精神的に傷を負い、敗者も屈辱感を抱える。著者は入学をどれだけ公平にするかでなく、ある程度以上の絞りこみはくじ引きのような「運」の要素を持たせることによって、名門大学入学や学位が持ってしまう過度な威信を下げる効果を期待します。「何だかんだで運なんだよな」的な感覚を共有できるのではないかと。

それと並行して、大学とは別の職業訓練学校などへの補助金を大幅に増やすべきだと著者は考えます。それにより充実するとともに、威信が上がるわけです。

 

第7章 労働を承認する

マイケル・ヤングは前出の著書で次のような意味のことを書いています。

「能力をあまりに重んじる社会で、能力がないと判定される」のは辛い。「底辺層の人々が、道徳的にこれほど無防備なまま取り残されることはかつてなかった」

いかなる労働においても社会的尊厳を回復する必要があるのですが、現在二つの政治方針案があると言います。

一つが低賃金労働者への賃金補助(給与税の対極)と労働市場の創出。

一つが金融活動への課税。金融は実質生産していないという観点からです。

政治・経済にはだいぶ私は疎いので、これらの策がどれほど現実的でどのくらい「共通善」を取り戻すのかはわかりませんが、教育・労働においてはっきりとした代案を示せるのは勇気がいるし「生産」していることになります。私としては著者を讃えざるをえません。

 

結論――能力と共通善

機会の平等に代わる唯一の選択肢は、不毛かつ抑圧的な、成果の平等だと考えられがちだ。しかし、選択肢はほかにもある。広い意味での条件の平等である。それによって、巨万の富や栄誉ある地位には無縁な人でも、まともで尊厳ある暮らしができるようにするのだ――社会的に評価される仕事の能力を身につけて発揮し、広く行き渡った学びの文化を共有し、仲間の市民と公共の問題について熟議することによって。

これだけが「結論」なわけではないのですが、本書の文脈の中で読むと、この個所が響いてきます。この訴えが、現実的なものか、夢想的なものか、読む者が判断するべきことなのでしょう。「共通善」という現代の政治論議では排除されてきたものを考え続けてきた著者の意欲とひたむきさが印象的です。

「神の恩寵か、出自の偶然か、運命の神秘がなかったら、私もああなっていた」。そのような謙虚さが、われわれを分断する冷酷な成功の倫理から引き返すきっかけとなる。能力の専制を超えて、怨嗟の少ない、より寛容な公共生活へ向かわせてくれるのだ。

 

 

一つだけ断っておくと、サンデルは能力主義の全否定や努力を認めていないわけではないのです。能力主義に100%振り切った場合(振り切っている現状)、こういうことが起きているわけですよと注意を喚起しています。

 

次はモーム『人間の絆』を読んでみたいと思います。

上下巻で読みごたえがありそう。

 

今週からは気温が回復するみたいです。少しずつ体を慣れさせていきたいものです。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

わからないけれどわかる男心 強者は弱者と心を通ぜられるのか? 白石一文『一瞬の光』

こんにちは。

雨が降っています。

全国的に快晴というところはなさそうな祝日。

いかがお過ごしでしょうか。

『実力も運のうち 能力主義は正義か?』を読んでいるのですがこれがなかなか読みごたえがある。私の「能力」だと一日に頑張っても2章しか読み進められないペースなので、今日は気分を変えて昔贈っていただいた本の紹介をしたいと思います。

 

『一瞬の光』 白石一文 角川書店

 

奥付を見ると平成十二年一月十日初版発行とありますので、2000年発表ということになります。

白石一文先生はこれ以前に純文学の世界でデビューしておりますが、本名名義で再びこちらの書籍でエンターテインメント小説でデビューし直しました。翌年、私がお会いしたときはまだ文藝春秋社に籍を置かれていまして、兼業で作家活動をされていました。私もそうでしたが、少しお体の具合がよろしくない様子が印象に残っています。それでもお時間を割いてくださり、懇切にお世話いただきました。

 

当時読んだときと、今、この作品と向き合うときとで、感想が異なりますので、そのへんのことなどについて書いてみたいと思います。

 

 

簡単なあらすじ

エリートサラリーマン・橋田浩介は男から見て非の打ちどころのない美女・藤山瑠衣と交際している。ふとしたことで知り合った複雑な家庭環境の短大生・中平香折に魅かれる。浩介は香折に愛を覚えるが、あるとき事件は起こり……。

 

23年前の感想

話のストーリー通り、浩介目線で、香折を気にかける彼の心情に同調し、読めました。男のやさしさといいますか、つい、香折のような自分が手を差し伸べなければ折れてしまう凍った一本の花のような女性を、愛してしまう。その強者男性と弱者女性といいましょうか、二人のいたわりの関係が、ラストの展開とシーンによって印象づけられていると。率直に言って、グッときました。

 

結末改変について

白石先生の関係者の方から伺ったのですが、刊行より24年たっていること、内容的に、オフレコではないと判断した上で記すのですが、当初の原稿では、その「事件」はなく、浩介と香折は幸せに暮らすという結末だったようです。

私はそれを知らされていない段階で読んだので、むしろ、その展開に夢中になって巻きこまれ、最後、「これでよかったのか?」と考えさせられる側面もあり、偉そうに聞こえるかもしれませんが、感心してしまいました。ふむ、なるほどと。一読者としても、心に残り続ける映像のようなものが届けられました。

しかし、それが編集者の指摘により、現在のように書き換えられたとのこと。私はまず作者である白石先生の心情を考えました。書き直して最終的に出版したということは、それは契約上は同意した上でということなのですが、心情的には、複雑なものがあったに違いありません。しかも、私のような読者――つまり、その改変によって作品の魅力が上がったという意見の持ち主――がいる、という事実によって、だいぶ入り組んだ思考をめぐらせたであろうことは想像可能です。白石先生は、もしかしたら、純文学の頭のモードから、エンタメ小説の頭のモードへの移行期だったのかもしれません。これは単なる推測にしかすぎません。そして、それを刊行前後に乗り越えたのだと。

確かに、起承転結、ドラマツルギー的には、その「展開」がないと、おかしなことになります。グラフで言えば上方向か下方向かは読者それぞれの見方に委ねられますが、どちらにしろ小説開始時からラストまで斜線が引かれるだけです。その展開によって、劇的、文字通り、「劇」が生まれるわけです。そこを決定的な境目として分かたれる前とあとが生じるわけです。そのせいで、最終部分の静的なシーンが印象に残ります。

そんなある意味自明のこと、そして個人的な感想をすべて白石先生に話したわけではないのですが、微妙な表情をされていたのを記憶しています。

 

現在の見方

普通に、一読者として、また、中年の男性として、「自分だったら浩介と同じ行動を取るか? 同じ選択をするか?」という疑問に対しては、何とも言いがたいものがあります。小説世界で起きたことを現実世界でも起きたと仮定して、自分がどう振る舞うか。23年前と同じく、感情移入できるかどうか。判別しがたい。

推薦の帯を村上龍氏が書いていますが、

自由主義経済は必然的に弱者・犠牲者を生む。この小説は、絶対的に弱者の側に立とうとする人間を描いていて、それが楽観的すぎる思いこみか、あるいは希望へと繋がるものか、その判断は読者に委ねられている。

とあります。

私の迷いは、23年前は「希望へと繋がる」読み方をしていたのに対し、現在は「楽観的すぎる思いこみ」の読み方をするんじゃないかという惧れです。この両項のバランスを取ってこそ、人は理性を保っていると現在の私は考えます。そう踏まえますと、いろいろ考えさせられることでしょう。

 

 

白石先生のサインを見ると、温かく接してくださった一人の人間・白石一文の人柄が偲ばれて、感謝の念を思い起こさずにはいられません。

 

 

出会いが人生を導くと、四十後半になると、つくづく思います。これからも白石先生のご活躍を応援しております。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

そのときマーロウにはどう見えたか? チャンドラー『大いなる眠り』

レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』で彼の文体に魅了され、初長編作『大いなるお別れ』を読んでみました。

 

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期待していた「文体の精度・密度」は得られなかったものの、主人公・フィリップ・マーロウの性格は知っていたので、描かれる作中の人物・出来事・風景を彼はどう眺め、思い、考え、行動に移していったかに注目して読み進めてみました。そう一文一文注意して読むと、いろんな発見があって驚き。この記事では、マーロウ視点に重点を置いて本書を紹介してみたいと思います。

 

 

簡単なあらすじ紹介

私立探偵マーロウは資産家の将軍に呼び出され、次女がしでかした不始末――借金の揺すり――を解決するべく、捜査を開始する。それは長女の失踪した結婚相手の捜索とも結びつき……。

 

感想・気づいたこと

ハードボイルドな感情表現

当然といえば当然のことなのですが、ハードボイルド小説では直接的な感情表現は行われません。例えば、登場人物が驚いたとき、「(私は)驚いた」「(彼は)驚いた表情をして」という記述は普通なされません。極めて間接的にか、大仰な言い回しをして、それはなされます。1章でマーロウが将軍邸に呼ばれそのイカれた次女の奇矯な行為に驚くシーンがあるのですが、

私は驚きのあまり落ちた下顎をなんとか胸から押し上げ、彼に向かって頷いた。

と、「驚き」という単語は入っているものの、オーバーな表現をわざと用いることで、ユニークさや、マーロウ自身の心情に次女への侮蔑や呆れた、といった感情が含まれているんじゃないかという読者の類推を許させています。

このように、マーロウはストレートには自分の思っていることや意図を語ることはしません。ですから、読者は「この話し相手の会話文を聞いて、書かれてはいないけれど、彼は心中どんなことを思っただろう?」などといちいち想像を膨らませながら読むことを求められます。丁寧に読むのならば。

面倒臭いけど、読みがいがある。けして考えて答えに結びつかないときもあるけど、考えて読んだ方が読み違えてページを戻すことが少なくなるから、結局そうした方がいい。すらすらと進めなくても憶測好きは迷路の間を歩いているような体験をできます。

 

細部へのこだわり

また、そうやって一つずつ考えながら読んでいくと、ディテールが異常なまでに指示されていることに気がつきます。

22章では、長女が交際のあるインテリヤクザの経営する賭場でルーレットの大勝ちをするシーンがあるのですが、冒頭、話とはまったく関係ない会場でルンバを演奏するメキシコ人の楽団の描写がなされます。

あとの四人は申し合わせたようにいっせいに身を屈め、椅子の下からグラスを取り、それを一口すすり、うまそうに唇を鳴らし目を輝かせた。飲みっぷりからするとテキーラのようだが、実際はたぶんミネラル・ウォーターだろう。そんな芝居は、彼らの音楽と同じくらい無益だった。誰も見ていなかったのだから。

活き活きとした、あるいは額に汗しているメキシコ人たちの顔が浮かぶようですが、繰り返しますが話の本筋からすると脇道にだいぶ逸れています。マーロウの目にはそう細かく映った、といったことを、このようにしつこくしつこく積み上げていきます。読者は自然、現実世界の無秩序さに似たものを覚えさせられます。リアリティーが生まれるわけです。

 

マーロウが差し出したもの

そんなマーロウがこの小説世界を生き抜く上で大切にしているものは何でしょう。

読んでいて、以下の会話文が鮮明に目に飛びこんできました。

「それっぽちの報酬のために、君はこの地域の法執行組織の半分を敵にまわそうというわけか?」

「好きでやってるわけじゃありません」と私は言った。「しかしそれ以外に何ができるというんです? 私は依頼を受けて仕事をしています。そして生活するために、自分に差し出せるだけのものを差し出している。神から与えられた少しばかりのガッツと頭脳、依頼人を護るためにはこづき回されることをもいとわない胆力、売り物といえばそれくらいです。(後略)」

たしかに、最後まで読んでも、マーロウは依頼人のために、それらのものを差し出しています。では彼はなぜそれを差し出さねばならないのか? 何のために差し出すのか? 結局、マーロウはマーロウが抱えるモラル(自己規範)のためにそれを差し出しています。そしてそうすることにより得られる自由のために差し出します。マーロウは、タフで、頭の回転の速い、だいぶシニカルな男です。でも、それとコインの裏表のように、人情に厚いところも持ち合わせています。あと反骨心。つまるところ、マーロウは依頼人のために自分の有能な面だけでなく、むしろ、いたわりの心を届けているのではないでしょうか。セットで不服従も。依頼人からしたらいたわりだけを受け取りたいところですが、マーロウは反骨精神とセットで報います。そこが、マーロウの不思議といいますか、憎めない、いや、憎いところです。

 

ラストの展開の手際のよさ

最後に、『ロング・グッドバイ』のときもそうでしたが、結末数章分での意外な展開が畳みかけられ唐突に終わる、という心憎い幕引きについて少し書きたいと思います。

マーロウの複数事件にまたがる全体の推理は、その都度、その都度で書き換えられていくのですが、ラストに、大規模なアップデートが行われます。その大胆な展開に読者は驚くわけですが(推理小説の醍醐味ですね)、だらだらと余韻を引き延ばすタイプのエンディングではなく、カットをバサッと切ってエンドロールが流れる映画のようなタイプの締めくくり方がされます。それが潔くてカッコいい。「男」のマーロウを書いているチャンドラーもまた「男」を感じてしまいます。「それまでは適当に流してたんだぜ、俺は」と葉巻でもくゆらせながら低音で言うチャンドラーの妄想の顔が浮かぶほど。これが2回目ですので、クセになる人の気持ちがわかってきました。

 

 

ひとこと、余裕があったら次『さよなら、愛しい人』を読んでみようかなあ。

 

 

明日から関東地方ではしばらく雨模様のようです。気温も戻るようです。みなさんお体にお気をつけください。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

面白がれるポイント満載 森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』

2006年刊行、翌年山本周五郎賞受賞、並びに本屋大賞2位だった本書を読了しました。

裏表紙の概要文に「キュートでポップな恋愛ファンタジーの傑作」とありましたが、頷ける内容。普段あまり読まないジャンルの小説だったので、「面白がらせ方」を面白がる読み方になっていたかもしれません。それでも十分楽しめました。どんなところが面白がれるか? という点から本書を紹介してみたいと思います。

 

 

⒈ ファンタジーの生じ方、消え方が面白い

これまで私はファンタジーは西だと『指輪物語』、東だと『水滸伝』といったような王道しか読んできませんでしたが、ファンタジー要素の扱い方が面白かったです。

『指輪物語』も、『水滸伝』『里見八犬伝』もそうですが、舞台は初めっから「現実ではないところ」から始まります。その上で「ありえないこと」が起こります。対して本作では、現実と見まがえるような位置からスタートしています。のちになって「もともとファンタジー世界だったんだ」と気づくにしても。そのリアリズムとファンタジーの混ざり方が楽しめました。

第一章で登場人物の樋口が「現代の天狗」芸を見せるあたりから、「あ、この作品世界ってそういうことなのね」という明確な意識が読者に根づきます。そのあとファンタジー路線は突っ走り、「叡山電車を積み重ねたような三階建の風変わりな乗り物」に代表されるような世界へと読む者を誘います。そしてまた、リアリティーが戻ってきて終わる、といった構図になっています。

マジックリアリズムという概念があるのですが、こんなに自然にもリアリズムとファンタジーを溶け合わせた作者の脳内というか、手腕に見事なものを感じてしまいます。

 

⒉ ライトな擬古典調の文体

それを支えているのがもしかしたら本書を紡ぐ上で使われている文章のテイストかもしれません。

擬古典調と書きましたが、普段我々が実生活で使わないちょっと古めかしい言い回しや単語の選択がなされ、違和感を頭っから覚える書き方がなされています。そのズレが、うまく手伝って、どこまでヘンになっていっても、ヘンではないように、私たち読者をフィットさせてくれているのかもしれません。

といっても、一文を抜き出して、「こんなに変わった文体だ」と誇示するほどヘンでもない。悪趣味になりすぎず、品よくちょっと古典調の文章で話は語られます。

 

⒊ 京都の味が濃い

また、私は京都は修学旅行で訪れたことしかなく、どこまで本物の京都なのか判別はつきませんが、東京に暮らしていて実感を持つことが少し難しい京都の市井の文化の匂いのようなものを感じてしまいます。リアリティーをまざまざと感じさせない、地名、達磨などの日本的なアイテム、古本市で並ぶ好事家が食いつきそうな書物の名前など、ラムネ、偽電気ブランなどの由緒ある飲み物・食べ物、そういった品々が頻出することによって成り立つ異化効果のようなものがファンタジー色を背中からあと押ししてくれます。実際に、京都にお住まいの方には、「京都の大袈裟なところばかり出しすぎや」となるのか、ならないのかは、私にはわかりません。少なくとも、非日常感を助長してくれています。

 

⒋ 登場人物のエゴは真正面からは出てこない

これは、言い換えると、悪いやつは一人も登場しない、ということになるのかもしれません。主人公二人、「先輩」と「黒髪の乙女」のそれぞれの「私」から交互にストーリーは話されていくのですが、彼女を恋う「先輩」も、追いかけられている「黒髪の乙女」も、ドロドロとした情念をたとえ抱えていても、適度に前述した「擬古典調の文体」の中で変換され、ポップな淡い印象しか残しません。「黒髪の乙女」にいたっては、「先輩」の思慕が造り上げたキュートな女性像が現実化したんじゃないかと疑いたくなるぐらい恬淡としたものです。そんな彼らを取り囲むクセの強い登場人物たちも、どこかエゴは持っているんだけれども、憎めないキャラ設定になっています。あるいはあっても書かないようにしています。そこが、本書をすらすら読めるものにしているのかもしれません。

 

⒌ 結局純情なんだな

主人公たちの恋の行方は書きませんが、結局どちらも純情なんだなと安心(いや、逆に不安にさせる?)させる性格の持ち主です。そこが本作を読んでいてほんわかとした気分にさせる大きな要素なのでしょう。しかし、最初から言っているように、ファンタジー。そこをわかった上で楽しめるか、楽しめないかも、一つ試されるところではあるかもしれません。

 

 

あと、複線回収がちゃんとなされて各章最後には大団円を迎える、等の読んでいて面白さと巧さを感じさせる部分など、他にも魅力はいろいろありますが、てんこ盛りにしすぎても、一つ一つのよさが薄まってしまうような気もしますので、5つのポイントに絞って考えてみました。

自分は他にもこういうところが楽しめた、などいろいろな見方があると思います。そういうものを発見すること、違いが生まれることが、読書の楽しみ方の一つにあることは間違いないでしょう。

他の方の感想も読んでみたいものです。

 

関東では今週気温が急激に上がり、体の体温調節が追いつかなかったからか、私は体調を崩してしまいました。

少し早い季節の変わり目ですが、みなさんぜひぜひご自愛ください。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

理屈でなく感性を書く――禅における二元論を越えた一元へ 鈴木俊隆『[新訳]禅マインド ビギナーズ・マインド』

書影

『[新訳]禅マインド ビギナーズ・マインド』 鈴木俊隆 藤田一照訳 PHP研究所

 

読もうと思った動機

たしかですけれど、自分の瞑想法に、疑問のようなものを抱いて、少し本格的な書物を手に取ってみようと考えた記憶があります。鈴木大拙を調べているうちに、アメリカには、二人の鈴木がいる、もう一人は、鈴木俊隆だと知って、彼の講話を編集した本書を選びました。といっても、だいぶソフトな入門書だと思います。

 

 

この記事を書いている私は仏教には無知

序文、はじめに、を読み進めているうち、鈴木俊隆が曹洞宗の禅僧であることを知りました。ちなみに彼の略歴を簡潔にしてみると、1904年生まれ、1971年逝去。神奈川県平塚市の曹洞宗松岩寺に生まれる。12歳で静岡県蔵雲院の玉潤祖温老師に弟子入り、駒澤大学在学中に蔵雲院住職となる。1959年渡米し、サンフランシスコ桑港寺住職となる。1962年サンフランシスコ禅センターを設立。1971年68歳で同地で逝去。渡米12年の間にアメリカにおける禅の基礎を築いた。欧米では20世紀を代表する精神的指導者の一人とされる。

曹洞宗か臨済宗かどちらか忘れましたが、私の父方の祖父が禅僧の僧籍を持っており、名前も改名しておりました。曹洞宗と臨済宗の宗旨の違いについてもまったく知りません。小学生の頃、祖父に提案されて坐禅を組まされたことがあったのですが、私は足首の固い子供で、ついに組むことはできませんでした。あと、若い頃は、左翼思想の強かったこの祖父にあまりよいイメージを持っておらず、悪いことに、そのついでといいますか、祖父が執着していた仏教・禅・ヨガ・精神世界についてを疎んでおりました。そういうわけで、今現在の私も、禅や仏教全体に対して、ほとんど無知な存在であるわけです。

そういう人間がどう本書を読めたか、という観点で本稿に目を通していただけるとありがたいです。

 

本文の構成

第一部「正しい修行」で身体について、

第二部「正しい態度」で感情について、

第三部「正しい理解」で心について、を語っている。

 

印象に残った箇所

仏教理論でなく、坐禅修行に取り組んでいるときの感覚を表そうとの模索の跡

「はじめに」でも、次のように本書の編集過程での苦労が書かれています。

英語はその基本的な前提において、徹底的なまでに二元論的です。日本語の場合は二元論的ではない仏教の思想を表現する方法を何世紀もかけて発達させる機会がありましたが、英語にはそういう機会がなかったために、この本の編集はさらに複雑になっています。鈴木老師はこれらの相互に異なる文化の語彙をきわめて自由自在に使いこなし、日本的な思考法と西洋的な思考法の両方で自分を表現しました。彼の講話においてはその二つの思考法が、詩的にも哲学的にも一体化していました。

たしかに、本文を読み進めていて、だいぶ頭では理解しがたいところが何度も何度も訪れてきました。それは、論理の整合性で読もうとしているからです。例えば、「東へ一里行くことは、西へ一里行くことである」というある禅匠の言葉は、理屈ではまったくナンセンスです。しかし、これを感性で読めば、何となく引用した鈴木俊隆の伝えたかったことが朧げに見えてきます。「東へ一里行ったら、同じように反対方向の西へ一里行く選択肢の自由を行使したも同じのようなものだ」とでも解釈できますでしょうか。このように、仏教理論でなく、坐禅中の心のあり方のようなものを、「ん?」と幾度も立ち止まらせ読み返さざるをえない記述の仕方をもって、伝えようとする努力が効果的に凝り固まった固定観念をブレイクしてくれます。喩えるなら、「アハ体験」の絵を見破ったときのような感覚です。そのようにして鈴木俊隆は読者の二元論的意識からの脱出を手伝ってくれます。

 

初心者の心

プロローグの「初心者の心」で、初心でもって坐禅に取り組む重要さが説かれます。再び「はじめに」から引用しますが、

禅の書法は、あたかも初心者が書くように、この上なく率直に気取らないやり方で書くことです。技巧を凝らしたり、美しいものにしようとしたりせず、今書いていることをまるで生まれて初めて発見したかのように、ただひたすらすべての注意を注いで書くだけです。

このように「まるで初めてやるように」坐ることが大切だと。これは足を組んで坐らなくても、「今、ここ」に意識を集中する上で、非常に役に立つ感覚だと思いました。「まるで初めてやるように」息を吐いて、吸う。ぜひ活かしてみたいと思います。

 

何にも囚われない柔軟性

第三部「正しい理解」で、一番好ましい意識のあり方が表現されます。29「心の準備、マインドフルネス」では、

私たちの理解で大切なことは、なめらかに、そしてとらわれずに思考するやり方で物ごとを観察することです。淀みなく考え、物ごとを観察しなければなりません。困難なく、物ごとをありのままに受け入れなければなりません。

よくマインドフルネス瞑想では、浮かんでくる思考や感情に対して、それらを放牧地の牛に例えて、暴れないようにそれを狭く柵で囲むのではなく、広々と敷地を空けて柵で囲むようにして観察するのだと言います。そのときに心の中で起こっていることを鈴木俊隆はコンパクトにうまく表現してくれていると思いました。

 

 

読み終わったあと、少し脳がパズルを解き続けたときのような複雑な疲れ方をしてくれます。ゆるい頭で読まないと、読み通せないので、論理性重視の左脳を休め、イメージを用いる右脳を使うことを促しているのかもしれません。

 

次は愉快な小説に目を落としてみたいと思います。

 

ところでウェザーニュースで檜山沙耶さんがお薦めしていた漫画『からかい上手の高木さん』のアニメがコラボしている高木神社のお守りを買い替えてきました。

 

高木神社

高木神社 『からかい上手の高木さん』 お守り

 

今年は実写のTV連続ドラマ、映画と、いろいろ公開されるみたいです。

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました。