もりじゅんの読書ブログ

読んだことない人には面白そうと、読んだことある人にはヒントの1つをと、作品を紹介できたらと思います

娯楽小説家としての司馬遼太郎 『燃えよ剣』

「―――」

 七里は、気合で、誘った。

 歳三は動かず。

 七里は踏みこんだ。

 とびあがった。

 上段から、電光のように歳三の左籠手にむかって撃ちおろした。

 が、その前、一瞬。

 歳三はツカをにぎる両拳を近よせ、刀をキラリと左斜めに返し、同時に体を右にひらいた。むろん、眼にもとまらぬ迅さである。

 戞っ

 と火花が散ったのは、和泉守兼定の裏鎬で落下した七里の太刀に応じたのだ。七里の太刀がはねあがった。体が、くずれた。

 

十年ぶりぐらいに『燃えよ剣』を読みました。

それまでは新潮文庫版(上下巻)の改版が出るたびに買い直していたのですが、2020年に文藝春秋から新書判で一巻本が出たとのことで、購入し、四度目の司馬遼太郎が描く土方歳三の男の旅路の世界に浸ってみました。

高校生のとき、二十代、三十代のときと、だいぶ違って読めました!

これまでは、どうしても「歴史小説家の司馬遼太郎」「司馬史観の持ち主」というフィルターを通して読んでいたのだけれど、「めっちゃエンターテインメント小説やん」「読者サービスがすごい」と、『燃えよ剣』を書いてるときの司馬遼太郎の違った顔が感じられて、なかなか楽しめました。

 

 

まず剣劇シーンが楽しめる

冒頭に引用したくだりは、主人公・土方歳三がまだ武州・南多摩の豪農のせがれで「バラガキ」(不良少年、ほどの意味)と呼ばれていた時代からの因縁の田舎浪人剣士、七里研之助(おそらく創作のライバルでしょう)と、歳三たちが上洛して新選組を結成し池田屋事件・蛤御門の変も終わった頃に、歳三が二条中洲で決闘する場面のものです。

この小説開始して早々から、剣戟の描写のシーンは多々出てきます。

それらは迫真の肉体感溢れる筆太の描かれ方をしているものの、高校生のときから、「これは、わざとテレビや映画のチャンバラを意識してやってるな」と感じたものですが、今回、四十代になって読んでみて、「ああ、読者を楽しませるためなら、何でもやっていたんだろうな、この頃の司馬遼太郎は」と、妙に感心してしまって、そういう司馬遼太郎の「芸」を素直に読めて、面白かったです。

剣術、剣道を司馬遼太郎がやっていようといまいと、読む者が未体験であろうと、楽しめる。

そんな工夫があちこちに鏤められていて、仮名遣いや漢字の書き分け、文の切り方、改行の仕方、視点の変え方で、真剣勝負の場の切迫した空気感が伝わるようになっていて、こちらも真剣に読んでしまう。

司馬遼太郎が当時原稿用紙の上に施した技を見抜こうと、こちらもついついムキになって読んでしまう。

純粋に、見事だな、と心の中で笑顔で読めました。

 

エンタメ作家としての司馬遼太郎

思うのですけれど、司馬遼太郎の著作物は、かなり多岐に渡っています。それぞれの作品ごとに、違った顔を見せる。

小説、エッセイ、対談。

そのジャンルごとにまず異なる。

そして歴史小説の中でも、『坂の上の雲』のような叙事詩としての作品もあれば、『竜馬がゆく』この『燃えよ剣』『尻啖え孫市』のような娯楽に重きを置いたものもある。

『世に棲む日日』のような文学性寄りの作品もあれば、『翔ぶが如く』のような、出だしの三、四巻だけ小説で、あとは伝記になってしまったちょっとへんてこりんな作品もある。

ちょっと掴みにくい作家ですね。それだけの作品量と幅がある書き手ということでしょうか。

さすが戦後の国民作家だけのことはあります。

平成後半ぐらいから、最新の歴史研究が次々と現れ、司馬遼太郎の時代とはまた違う歴史認識の上に我々は立ち、「司馬遼太郎はホラ吹きだ」「司馬史観否定」という風潮になっているのかもしれませんが、彼の何といっても一番の顔は、読者が楽しめるなら何でもやるという「エンターテインメント作家」の顔ではないでしょうか。

小説内の歴史記述の真偽に一喜一憂せず、彼が企んだ架空の物語世界に、彼が情熱をこめた架空の歴史人物の一人一人に、焦点を合わせて読むのが、私のお薦めの司馬遼太郎の読み方です。

 

『燃えよ剣』の土方歳三という男の型

ではこの小説で提供される土方歳三像の魅力とは何でしょう。

つまりこの小説の楽しめるポイントとは何でしょう。

歳三は、幕末の混沌とした世の中に――それは日本始まって以来の思想戦の時代であると思います――思想・信条を持ちこまず、喧嘩・暗殺・戦争といった、戦闘行為そのものに自分の価値を見出だします。新選組という組織を強化することだけに夢中になります。武士出身でないのに武士であろうと必死になります。節義だけを大切にします。

その理念でなく「機能」そのものに、自ら「道具」であろうと身を処す潔い男の生き方に、私たちは見事さを感じるのではないでしょうか。

歳三は結核で臥せる弟分の沖田総司の枕頭で刀を抜き放ち、見せます。

「刀とは、工匠が、人を斬る目的のためにのみ作ったものだ。刀の性分、目的というのは、単純明快なものだ。兵書とおなじく、敵を破る、という思想だけのものである」

「はあ」

「しかし見ろ、この単純の美しさを。刀は、刀は美人よりもうつくしい。美人は見ていても心はひきしまらぬが、刀のうつくしさは、粛然として男子の鉄腸をひきしめる。目的は単純であるべきである。思想は単純であるべきである。新選組は節義にのみ生きるべきである」

もちろんこの歳三の「思想」が素晴らしい、現代人もそうあるべきだなどとつまらぬことを言うつもりはありません。

闘争のためだけに生まれてきたような男の美学、泥臭くとも勝ち抜く闘志、そのためにはいかなる面倒な思案や研究も厭わない頭脳。

そういう、土方歳三に詰まった天賦の才能と生き様とシンプルな自己規定の仕方に、あっぱれなものを感じてしまいます。

 

登場する女性や恋が魅力的

また、「この小説を書いているとき、司馬遼太郎は恋をしていたんじゃないか」と穿たれるほど、『燃えよ剣』には数多の女性と彼女たちとの歳三の関係が出てきます。

いろんなパターンの肉体関係、惹かれ合い方が出てきます。

これをいちいち楽しめる。

最も主要なヒロインは、お雪です。彼女と歳三の関係がなかなかよい。

お雪もフィクションなのでしょうが、最終的に「鬼の歳三」が落ちる場面を読むのもこの小説の醍醐味です。

 

半藤一利さんの「八十年周期説」

最後に、やはり幕末を舞台としている以上、混乱期に、いろいろな歴史人物や歴史事件が語られます。読者は、現代で同じような立場に立ったら、自分はどういう姿勢を取るかなど、考えることも可能です。

半藤一利『昭和史』『幕末史』に、「八十年周期説」のような、時代の変わり目の周期が語られます。前半の四十年で、新しく起こったシステムは繫栄し、後半の四十年で、そのシステムは崩壊していくという説です。

 

 

 

半藤さんは、1865年安政五カ国条約の勅許で日本の開国が公式認定され、この年が日本近代化のスタートの年だと考えます。

40年後の1905年日露戦争勝利でその流れはピークを迎えます。

さらにまた40年後の1945年第二次世界大戦敗戦で大日本帝国は崩壊します。と同時に民主主義・経済大国日本はスタートします。

40年後の1985年プラザ合意・円高で経済の発展はピークを迎えます。

さらにまた40年後の2025年……来年ですね、どうなるのでしょう。1985年当時より日本は経済において国際競争力が右肩下がりのような気もします。

そんな幕末の160年後、敗戦の80年後を控える現代を、土方歳三が活躍した当時と比べて考えてみるのも一つの意味があるかもしれません。

現代は第三の幕末であると仮定して、いかに生きるか。本書『燃えよ剣』を読みながら、そんなことを考えさせられました。

 

『燃えよ剣』は2種類の書籍で読める

最初に書きましたように、新潮文庫版(上下二冊)と、新たに刊行された文藝春秋新書サイズ版(一冊)と、現在2種類の紙の本で手に取ることができます。

 

『燃えよ剣』 司馬遼太郎 文藝春秋

 

一つだけ気をつけていただきたいのは、文春版はレイアウトが段組(二段組)になっていることです。

 

段組

段組が気にならない方なら、どちらのバージョンでもかまわないと思います。

厚さはどちらも同じようなものでしょう。

一気に読みたいのなら、文春版の方が勢いがつきそうな気もします。

丁寧に読みたい人なら、新潮文庫版がよいような気もします。

 

 

 

興味を持たれた方はぜひ目を通してみてください。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。