アパートの部屋に戻ると、身長2m以上ある蛙が立っていた。
「ぼくのことはかえるくんと呼んで下さい」
ここから始まる村上春樹「かえるくん、東京を救う」という短編について少しお話ししたいと思います。
このお話は1995年2月18日午前8時半頃、東京に直下型の大地震を起こそうとする「みみずくん」をかえるくんと主人公・片桐が阻止しようとする物語です。
実際には戦闘シーンはほとんど描かれず、かえるくんが片桐に《勇気と正義》を求めるように、イマジナリーの世界でバトルは行われます。
前日の真夜中に片桐が勤めている信金の地下ボイラー室からみみずくんのもとへと降りようと約束する二人ですが、片桐はその夕方に返済取り立て業務中に狙撃されて意識を失います。
しかし翌朝9時15分に病院で目覚めると、ただ単に歌舞伎町の路上で昏倒していたと看護婦に教えられます。
片桐は幻(?)の狙撃後でも勇気を行使しますし、おそらく昏睡中にもそのようにしていたことでしょう。
これはどういうことを意味するのでしょうか?
ヒントとして同作者の別の著作の中で以下のような意訳の発言が行われていることを提示したいと思います。
「善は善だけで善ではない。悪は悪だけで悪ではない。善と悪が拮抗している状態こそが善なのだ。その善を増そうとする意志によってこの均衡は保たれている」
この「善を増そうとする意志」、つまり《勇気と正義》の意志、それ自体が大切なことなのだと作者は訴えたかったのではないでしょうか。
それは目に見える現実での生々しい戦いでもなく、映画のような派手派手しい華やかなものでなくてもいい、ただ個人個人の内なる意志が必要なのだと。
それは我々の内の善と悪の競争でもあります。
かえるくんは病床で身動きできない片桐のもとへ、みみずくんとの戦いでボロボロになった体で言います。
目に見えるものが本当のものとはかぎりません。ぼくの敵はぼく自身の中のぼくでもあります。ぼく自身の中には非ぼくがいます。
片桐の中でのかえるくん的善の意志と、片桐の中でのみみずくん的悪の意志の戦いがまったく描かれていないものの繰り広げられていたと推測も可能です。
ちなみに「みみずくん」とは、次のようにかえるくんによって説明されています。
(上略)みみずくんのような存在も、ある意味では、世界にとってあってかまわないものなのだろうと考えています。
みみずくんはほとんど何も考えられないぐらいの脳ミソしかなく、東京の地上の振動や、前月起きた阪神大震災の影響を受けてひどく腹を立てて、よし、ここらで大地震を起こしてやろうと思った大みみずです。
この設定がアニメ映画・新海誠『すずめの戸締まり』に影響を与えたとの憶測も可能です。
我々の中には、けして排除できない、みみずくん的なるものが存在して、それとのバランスを取るために、常に《勇気と正義》の選択を強いられている、とのメッセージを受け取ることもできるでしょう。
参考として過去に以下のような書籍から村上春樹作品の理解を得られたことを付記しておきます。
加藤典洋『村上春樹 イエローページ1~3』(幻冬舎文庫)
内田樹『もういちど村上春樹にご用心』(文春文庫)
小山鉄郎『村上春樹を読みつくす』(講談社現代新書)
小山鉄郎『村上春樹クロニクル BOOK1 2011-2016・BOOK2 2016-2021』(春陽堂書店)
他
今年も年の瀬ですね。
新年は少しスタイルを変えて記事更新してみたいと思います。
みなさま、よいお年を。
最後までお読みいただきありがとうございました。