もりじゅんの読書ブログ

読んだことない人には面白そうと、読んだことある人にはヒントの1つをと、作品を紹介できたらと思います

奇書を超えた傑作? 原作と映画はどう違う? アラスター・グレイ『哀れなるものたち』

 

『哀れなるものたち』 アラスター・グレイ 高橋和久訳 ハヤカワ文庫 カバー型帯

 

知人に「面白いよ」と教えられて2月下旬、ヨルゴス・ランティモス監督、エマ・ストーン主演の映画、『哀れなるものたち』を観てきました。

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2時間半近い長さもまったく苦にならず、「久しぶりに面白い映画を観たな」と、帰路の足は弾み、私にはとてもウケた作品でした。

ギリシャ人の監督だけど、原作小説はスコットランド人が書いたらしい。そんな情報を耳にして、映画の内容も手伝って、「原作小説読みたいけれど、なんか読みづらそうな予感がする」と私は思ったのですが、本日読了して、まったく私の予感は的外れであったことがわかりました。すらすら、そして、じっくり読める。ショッキングな内容は相変わらずだけど、良質な手応えが感じられました。

この記事ではアラスター・グレイ著『哀れなるものたち』を中心にして語りますが、最後に原作と映画の違いについても、少しだけ触れたいと思います。

 

 

アラスター・グレイ著『哀れなるものたち』

作者・アラスター・グレイについて簡単に紹介

1934年グラスゴーに生まれる。スコットランドを代表する小説家。画家、劇作家、脚本家としても活躍。美術学校在学中から執筆を始め30年近い年月をかけて完成させた初長編『ラナーク 四巻からなる伝記』(1981)を世に出す。本書の表紙を始めとする挿画も自ら手がけたりする多才を発揮。1992年発表の本書は長編第六作に当たり、ウィットブレッド賞、ガーディアン賞をダブル受賞し、名実ともに彼の代表作。2019年没。

 

『哀れなるものたち』の構成

  • 序文 17ページほど by アラスター・グレイ
  • スコットランドの一公衆衛生官の若き日々を彩るいくつかの挿話 409ページほど by 医学博士アーチボールド・マッキャンドルス
  • 右記著作についての孫、または曾孫宛書簡 44ページ by 医学博士"ヴィクトリア"・マッキャンドルス
  • 批評的歴史的な註 68ページ by アラスター・グレイ

 

といった、マッキャンドルスなる者が自費出版した書籍をアラスター・グレイが編者として再出版するといった形式を取っています。めんどくさいと思われるかもしれませんが、そのめんどくささが面白いことになっています。洗練された中二病とでもいいますでしょうか。

 

『哀れなるものたち』の簡単なあらすじ

ここではネタバレ予防のために、映画でもほぼこちらに材を取っている、主要パート「スコットランドの一公衆衛生官の若き日々を彩るいくつかの挿話」限定のちょっとしたストーリーを書いてみたいと思います。

 

主要登場人物
  • ベラ・バクスター 25歳のとき、ゴドウィン・バクスターによって新たに生まれ変わり、バクスターを父代わりとして、世界旅行をしたりして新たな知識と経験により旧弊でないものの見方を身につけていく女性。
  • ゴドウィン・バクスター 医学博士。解剖学に詳しい。ベラの導き手。
  • アーチボールド・マッキャンドルス 医学博士。ゴドウィンを慕っている。ベラの婚約者になる。この話の語り手。
  • ダンカン・ウェダバーン 弁護士。ベラと駆け落ちしてヨーロッパ・地中海を回る。肉体関係にしか男の尊厳を見出せない男性。
  • ドクター・フッカー 神学博士であり医学博士のアメリカ人。中国での布教を終え帰国中の船旅でベラたちと出会う。アストレーに言わせれば「未熟なオプティミスト」
  • ハリー・アストレー イングランドの産業人。同じく船旅中にベラたちと出会う。現実主義者。
  • ブレシントン将軍 「雷電」の異名を持つ軍人。ベラの最初の夫。ベラを自殺に追いこんだのも彼だが、ベラの帰国後、連れ戻しに訪れる。

 

あらすじ

19世紀末のグラスゴー。異端の科学者・ゴドウィン・バクスターは身投げで死んだ女性の遺体を引き受け、胎児の脳を取り出し、母親に移植し再生し、姪の「ベラ・バクスター」として英才教育を授ける。驚異的なスピードで意識が育つベラ。ゴドウィンの追っかけのマッキャンドルスはベラに惹かれ婚約する。そこへ召し使いたらしのウェダバーンがベラを誘惑しヨーロッパ旅行へと連れ出す。さまざまなものを見、さまざまな人たちと言葉を交わし、ベラは自分を更新――希望と現実を発見――してゆくが、セックスでしか男の威厳を見せられないウェダバーンはどんどん傷ついてゆき発狂する。ベラが話の最後で辿り着いた自分の生き方とは。

 

感想

哀れな男たちしか出てこない

ベラを中心として周囲に存在する男たちは、何らかのものをベラに求めています。

ゴドウィンにしても、理想の女性をベラに見出そうとします。それゆえ奇怪な「ベラ・バクスター」を作り上げる歪んだ哀れな男性像が浮かび上がってきます。

マッキャンドルスにしても、童貞ゆえの無邪気な女性信仰が感じられます。間抜けな哀れさを感じてしまいます。

ウェダバーンも、性の力で屈服できない女性に怖れをなして狂ってしまいます。世間によくいがちな肉体的強さしか強さと認められない男は哀れな状態を迎えます。

ドクター・フッカーは、ベラを口説こうとはしないものの、弱さを感じさせます。

ハリー・アストレーは、クールなんだけれども、ベラを論理でねじ伏せようとするものの、結局ベラの自立した女性となろうとする姿勢の前に跪きます。なんだかんだ言って口説きたいだけなんかい、と、ちょっと滑稽。

最初の夫のブレシントン将軍はゴドウィンと同等かそれ以上に狂っています。ウェダバーンと正反対の弱さのようなものを感じてしまって哀れ。

そう登場人物たちの男を「哀れ」と書いている私ですが、彼らを哀れだと感じられるということは、私の中に彼らの持つ諸要素が存在するということです。この作品的には、私も哀れ。

そんな男たちを見つめるベラはどうか? 「批評的歴史的な註」パートにおいては、ベラの哀れさが炙り出されます。

 

2段階オチが見事というか、衝撃

作内「編集者」としてのアラスター・グレイは、マッキャンドルスの著書を事実と信じている側なので、「序文」と「本文」ではマッキャンドルス寄りの記述になっていて、そういう意味ではトーンはそれほど変わりません。

しかしベラが改名した「ヴィクトリア・マッキャンドルス」として書いた「孫、または曾孫宛書簡」では、まったく違う真実が現れます……。愕然とするほど私は驚かされました。例えば芥川龍之介「藪の中」(黒澤明『羅生門』の原作)では、事件の参考人それぞれがそれぞれの視点で違ったことを話しだします。そのレベルではない、まったく解釈がアーチボールド・マッキャンドルスとヴィクトリア・マッキャンドルスの夫婦の間では食い違い、理解不能になっている関係性までもが浮かび上がり、読者としては「やられた!」と強い衝撃を受けました。見事なオチです。加えて最後の「註」では再びアラスター・グレイの筆となりますので、ヴィクトリア・マッキャンドルスへの批判めいた記述のようにも読めてしまいます。オチをまたひっくり返したわけです。いわば2段階オチのようなものでしょうか。

 

普遍性のある「真実」などない

そのような構成、また、登場人物たちの信念の異なりから導かれる感想は、「この小説の中と同じぐらい、強烈に、我々の住んでいる現実でも、それぞれの真実は食い違っているのではないか?」という疑念です。いやあ、お見事、アラスター・グレイ。訳者の高橋和久氏が解説の末尾に《そこでひとこと大真面目な助言。本書は文庫だからといって、明るい人前で読まないでください。危険です!》と書き残していますが、私もだいぶアブない作品だと思います。私からも書きたいです、これから読まれる方は、元気なときに読んでください、と。

 

ヨルゴス・ランティモス監督の映画『哀れなるものたち』との比較

映画ではわからなかったことが原作を読んでわかる

例えば、映画を一回観ただけではわからなかったことがいくつか私の中でありました。

2つ例に出すと、

  • ベラの頭に入れ替えられた胎児の脳は女児か? 男児か?
  • ベラの子宮から胎児が取り出されたとき、子宮が破壊されその後のベラは妊娠不可能な体となっているのか、否か?

もし原作世界=映画化世界ということならば、その答えは両方とも原作を読んでわかりそうです。胎児は女の子だった可能性が高いです。そしてベラは実際に作品内でのちに3人男の子を産んでいるので、普通の帝王切開だったことがわかります。

 

大きな変更点はないが、小さな違いはある

原作小説の「スコットランドの一公衆衛生官の若き日々を彩るいくつかの挿話」の部分だけを取れば、つまり、映画化されている部分だけを取れば、大筋はそんなに違いはないです。もちろん登場人物の人物像の設定の違いや、起きたこと、起きなかったこと、構成そのものの違い、映画のラストが原作にあるかないかなど、細かい違いを挙げていけばきりがありません。しかし、概ねの世界観は、だいたい一致していると私は思います。

 

原作にはあって映画にはないもの

これは本書の構成のところで触れたように、映画化されなかったパートがあと3つあります。中でも夫・マッキャンドルス目線への痛烈なカウンターであるベラの反論のあるなしが、大きい。これは小説でしか味わえないことなので、ぜひご自身の目で追って体験されることをお薦めします。

 

 

私の体験で言うと、異なるメディアで取り上げられた作品の評価は、最初気に入った方を、のちに追った媒体が上回るということは、滅多にありませんでした。例を挙げると、

  • 『君の膵臓をたべたい』映画は気に入った→原作小説を読んで少し幻滅
  • 『ノルウェイの森』原作小説お気に入り→映画化されたものを観て5分で視聴中止

みたいな感じになります。

ごく稀に、同等レベルまで好きになれることがあります。

  • 『燃えよ剣』役所広司が土方歳三役のドラマでカッコいいと思う→原作小説でもカッコいいと思う
  • 『秒速5センチメートル』アニメ映画をいいと思う→ノベライズされたものもいいと思う

『哀れなるものたち』においては、この後者の、レアケース、映画も、原作小説も、両方面白かった、という私の感想になりそうです。

読む前の予想を遥かに超えた、私にとっては、中二病の作家が書いた奇書に止まらない、傑作に、思えました。

他の方の、映画、小説、両方の感想を聞いてみたいものです。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

ブレイディみかこ『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』

 

『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』 ブレイディみかこ 文藝春秋

 

シンパシーとエンパシー

みなさんは「共感」という日本語、どのように使われますか。

「今の日本の政治家の話し方にはまったく共感できない」

「この監督の一つ前の作品には共感できなかったけど、今回のには共感できた」

「この投稿に共感していいねボタンを押してしまった」

とりあえず3つ、私なりに適当に「共感」を用いて文章を作ってみましたが、これらの「共感」は英訳すると、おそらく"sympathy"になります。ところが他方、英語ではもう一つ「共感」と訳される単語があります。"empathy"です。

 

英語圏でもこの"empathy"という言葉、大変定義及び解釈が複雑になっているようです。8種類あるという学者もいるほど。著者は次のように4つに分類してみせます。

  1. コグニティヴ・エンパシー 他者の考えや感情を想像する能力。
  2. エモーショナル・エンパシー 他者と同じ感情を感じること。
  3. ソマティック・エンパシー 他者の痛みや苦しみを想像することによって自分もフィジカルにそれを感じてしまうというもの。
  4. コンパッショネイト・エンパシー 他者が考えていることを想像・理解することや他者の感情を自分も感じるといったエンパシーで完結せず、それが何らかのアクションを引き起こすこと。

 

日本でたいてい使われている「共感」=シンパシーは、この中の⒉エモーショナル・エンパシーであり、著者が本書で扱いたいのは⒈コグニティヴ・エンパシーだと言います。

 

 

エンパシーは種類によっては危険

『反共感論 社会はいかに判断を誤るか』(高橋洋訳、白揚社)でポール・ブルームはエモーショナル・エンパシーの危険性を指摘していると言います。

事件の被害者の気持ちに共感しすぎた挙句容疑者が護送される車に生卵をぶつけに行く人は、もしかしたら不幸な事件は忘れて一刻も早く元の生活に戻りたい被害者や家族の迷惑を考えていないのかもしれない。

1人の子供が欠陥のあるワクチンで重病にかかって苦しむ姿を見てワクチン接種プログラムの中止を叫び、そのために数十人の任意の子供たちを殺すようなことをさせてしまうかもしれない。

 

シンパシー=共感、は問題がありそうです。他方、エンパシー(コグニティヴ・エンパシー)は自然発生的な共感でなく、想像力を使って理解しようとする能力ですから、能力の使い方、ということになるのかもしれません。

 

エンパシー能力は後天的なもの

坂上香監督のドキュメンタリー『プリズン・サークル』で、受刑者同士が加害者役、被害者役、被害者の家族役などのロールプレイをする中でエンパシー能力を向上させていくさまが見て取れると著者は驚きます。

また、「I(わたしは)」という主語を使って本当の言葉を発する、自己開示する、主体性を回復する過程が見られると。

「I」の獲得と、エンパシー能力の向上に、著者は「利己的になることは利他的になること」を見出します。

 

コロナ禍の中でハンド・サニタイザーやトイレットペーパーや保存食の買い占めに走ることは、医療従事者を圧迫し、貧困層の健康を低下させることで回り回って自分に被害が増える可能性をエンパシーによって理解できるはずだ、つまり、「利他的になれば利己的になる」はずだと著者は考察します。

 

サッチャーにはエンパシーがなかった

BBCのドキュメンタリーで、サッチャーの私設秘書を務めたティム・ランケスターが、

「彼女は、シンパシーのある人だったが、エンパシーのある人ではなかった」

と証言しているらしいです。

「鉄の女」サッチャーは、実は官邸のお抱え運転手や自分の身の周りで働く人々にはとてもやさしく、思いやりのある人物だったらしい。

他方、SDP(社会民主党)の創設者デヴィッド・オーウェンは、彼女がやさしかったのは、官邸で働いていたスタッフはみな各分野で成功を収めていたり優秀だったからだと言います。

「それら(優秀なスタッフたちの不幸や問題)は彼女の理解の範囲内だった。彼女の性格的な弱点、そして首相としての弱点は、様々な段階で助けを必要とする人々が、おそらく人口の10%から20%は存在するということを、けっして本当には理解しなかったことだ」

ここにエリートによる能力主義が陥るエンパシーの欠落を重ねられそうです。

 

mori-jun.hatenablog.com

 

アナキズム=自分を手放さない

アナキズムは、「無政府主義」と訳されますが、巻末に「アナーキー」について著者の意見が述べらています。

「アナーキー」は暴力や無法状態と結びつけて考えられやすい。しかし、その本来の定義は、自由な個人たちが自由に協働し、常に現状を疑い、より良い状況に変える道を共に探していくことだ。

このような「自分を手放さない」人がエンパシーを働かせることによって、相互扶助が可能になると著者は言います。

自分は自分。他者とは決して混ざらないということである。その上で他者が何を考えているのかを想像・理解しようとするのだ。

これが著者が唱えたい「アナーキック・エンパシー」ということなのでしょう。

 

エモーショナル・エンパシーは搾取される

エモーショナル・エンパシー=シンパシーに長けた人は、受動的な「鏡」になりがちだ。それだけに、そういう個人が強烈な自我を持つ他者と出くわすと――本書では米国トランプ大統領時代を例に出しています――自分を明け渡してしまう。それは一対一の場面だけでなく、組織内の上と下の関係にも表れる。国の中での政府と労働者との関係にも言える。組織は、エモーショナル・エンパシーの搾取によって成り立っていると、著者は考えます。

だからこそ、著者は「エンパシーとアナーキーはセットで」と書きます。

 

 

ブレイディみかこさんは、多国籍なイギリスで子育てをされた経験を書いた『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』で有名な作家さんです。

 

 

その本の252ページの中に4ページしか登場しない「エンパシー」が読者に反響を呼んだようで、「エンパシー」そのものを扱った本書に取り組まれたみたいです。

 

私も知っているシンパシーと、エンパシーは、どう違うのか。

また、本記事で軽く触れました、「シンパシーの搾取」について興味がありましたので、購読してみました。

本書内に出てくるアナキズムに関心が湧き、やはり本書でも登場するジェームズ・C・スコット『実践 日々のアナキズム 世界に抗う土着の秩序の作り方』(清水展他訳、岩波書店)をほしいものリストに入れてみました。

 

 

「エンパシーとアナーキーはセットで」。シンパシーを使いがちな私には刺さった本書でした。

エンパシーは一生かけて磨き続けるべきものらしいので、これから実生活の中で気に留めてみたい思います。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

「自分は無意味である」から生じる生きる力 モーム『人間の絆』

W・サマセット・モームの世界的ベストセラーの一つ、金原瑞人訳『人間の絆』(新潮文庫)を読み終えました。

 

『人間の絆』 サマセット・モーム 金原瑞人訳 新潮文庫 上下巻

 

作品後にモームが寄せている「序」でも触れられているように、自伝的小説です。

モームの分身であろうフィリップ・ケアリが10歳のときに母と死別し(父はその半年前にやはり病死している)、30歳で医師免許を得て独り立ちするまでを、大河ドラマ級の長さではないものの、連続テレビ小説クラスの緻密さと分量で描いています。

かといって、淡々とあった出来事を記しているわけではなく、フィリップの成長と、そのときそのときどう感じ、考え、動いたかを内面を重視して書いているので、読む方も、考えながら全122章を読まされます。内面というより、フィリップが、世界のありよう、そしてこの世界で生きていく上で、どういったスタンスで生きていくべきか? といった問いが各時代で書き換えられていくのをつき合わされている、と言った方が近いかもしれません。

その意味において、読者(つまり私)とも意見が重なったり、ぶつかったりすることは必定で、心の中で「わかるわかる!」や、「いや、それは違うだろう、フィリップ!」と叫びながら読まされることになります。

というようなわけで、大変読みごたえがあった本作について、思うところを遠慮なく――つまりネタバレありで――ビシバシと書き綴ってみたいと思います。もちろん、これから本作を手に取られる方は、一から楽しみたいと思っておられる方は、本記事の閲覧をご遠慮ください。なぜなら小説の展開が「そうくるかあ!」と驚かされる面白みや、発見が、だいぶ減少するからです。お読みになってから、本記事に目を通されて、ご自身の感想と比べてみてください。それではまず全体の流れ(10~30歳までのフィリップの年譜的構成)から語ってみたいと思います。

 

 

『人間の絆』主人公フィリップの遍歴

1章で眠っていたフィリップは起こされ、母に抱かれます。これが最後の母との接触です。それから彼はどうしていくのか。おおまかに、各時代に分けてみたいと思います。短い期間のものは括弧で括ります。

  • (牧師の伯父と伯母のもとでの生活)
  • キングズ・スクール(聖職者になる生徒が多い学校)での少年時代
  • (信仰を捨て)ドイツ・ハイデルベルクへの留学。ロマンの発見
  • (伯父の家でのミス・ウィルキンソンとの交際)
  • (ロンドンでの会計士見習い時代)
  • パリでの画家修業時代。美に憧れる
  • (才能に見切りをつけ)ロンドンの医学校に通う。ミルドレットを愛す
  • (財産を失い)貧窮生活。衣料百貨店で働き食い繋ぐ
  • 結末部分(ネタバレにもほどがありますので秘密にさせていただきます)

 

フィリップの精神的遍歴の図

社会の中における立ち位置、としてのフィリップの遍歴は、上記の箇条書きのように並べられますが、彼の精神性の遍歴については、次のように図示できるかもしれません。

モーム『人間の絆』 主人公フィリップの覚醒の歴史

 

彼がたどり着いた結論

フィリップは、①のキングズ・スクール時代において、牧師の伯父の期待や彼自身の信仰から、神について考え、真剣に祈ることもありましたが、結局、信仰心を失います。自分は宗教に向いていない人間だと知ります。そのようにして、各時代ごとに、いろんな幻想に憑りつかれたあと、それらに幻滅を覚え、それらを捨て去ってゆきます。

②のドイツ時代では、ロマンでしょうか。

③の壮絶な美と対峙して己や周囲の才能の有無と向き合う場面は、4年後の1919年に発表する『月と六ペンス』とも絡んできて、シリアスで、なおかつ胸に迫る生々しい情念が感じられて、残酷です。残酷と言えば、この『人間の絆』全体を通して言えるのですが、けしてモームは人を描くとき躊躇しません。登場人物たちにフィリップ目線でポンポンと美質を挙げていくこともあるのですが、醜いところを容赦なく言及してしまいます。そこまでフィリップに悪しざまに思わせるか、という書きっぷりをしています。そこらへんは読者によって好悪は分かれるかもしれませんが、私はモームのその残酷さが好きです。正直な人なんだな、と思う。けして手を緩めないところに尊敬の念さえ覚えてしまいます。

mori-jun.hatenablog.com

④の時代での、フィリップが悪女と言い切ってもかまわないであろうクソ女、ミルドレットに自分でも理由がわからなくのめりこんでゆくところは、最初の方は「クソ男とクソ女だなあ」と笑って読んでられていたのですが、最後の方は、彼らに憤怒を覚えるほどひどい。「オレだったらこんな女と同居してたら二日に一回はブチ切れてるだろうな」と想像することで読み続けるのが可能になるぐらい。そしてその理由を考えて驚いたのですが、私が最後におつき合いしていた女性がちょっとミルドレットに似ている……ということは、この頃のフィリップ・ケアリに私は似ていたということに気づき、愕然として笑わざるをえませんでした。あるんですよね、人の人生にとって「愛」に憑かれてしまうとき。すでに述べましたが、「自分でも理由がわからなく」のめりこむ。「自分でもコントロールできないぐらい」愛してしまう。これは「愛」に限らず、人生の諸時期でのあらゆる行動や思念にも言えることなのではないでしょうか。私がこの記事をタイピングしているとき、それは本当に私の意志でタイピングしているのか。何か視えざる圧倒的な私とは無関係の力によってそうさせられているだけではないか。過去の重大な決断をしたことも、今朝バナナを食べたことも、何がしかに操られているだけではないか。この感覚は読者である私の感想だけではなく、主人公のフィリップも認識しています。それが言語化されるのが次の⑤です。

貧窮の中、大英博物館の中でフィリップは唐突に悟ります。

生は無意味で、死は何も残さない。フィリップは歓喜した。十代の頃、神への信仰という重荷が肩から消えたときの歓喜を味わった。責任という最後の重荷から解放されたような気がした。そして生まれて初めて、完全に自由になった。自分が無価値だという自覚は力につながった。そして突然、いままで自分を迫害してきた残酷な運命と対等になったように感じた。

そしてフィリップは己の生き方に結論を出します。

絨毯織りの職人はなんの目的もなく、ただ美しいものを作る喜びにひたってあれを織った。そんなふうに人生を生きることもできるのではないか。また、何ひとつ思うような選択ができないまま生きてきたと思っている人でも、絨毯織りのように自分の人生をみれば、それがひとつの模様になっているのがわかるはずだ。何かをする必要もなければ、したところでなんの益もない。やりたければ、やればいい。人生の多くのことから、行動や感情や思考などすべてのことを素材に模様を描くことができる。

フィリップは、とうとう何もないところに到達できたのかもしれません。神を抛り出し、ロマンを抛り投げ、美・才能と決別し、愛の醜さを知り、人生の意味から逃れられた。その瞬間、彼は無敵の人になったことでしょう。この経緯がまったくモームの体験と同じなのかどうかはわかりませんが、執筆時のモーム自身の結論ともだいぶ重なっていることでしょう。

結末に関しては、一言だけ言わせてもらうと……温かなロマンチシズムを感じてしまいます。最終的には、そういうものが必要になってくるわけです。

 

フィリップは、このように、モラルや、ロマンチシズムの側と、リアリストとの側との、両極の間で常に揺れ動いているのですが、各時代ごとに追ってゆくと、徐々にリアリズムに寄っていっているように感じられました。それが、少年から青年、壮年へと移り変わるさまを見ているようで、楽しめます。

 

 

 

フィリップのように、いろんな幻想を捨てていくことは、非常に力のいることです。力があるからこそ、幻想を持たなくてすむ。私たちは、弱き人間だからこそ、何らかの幻想にしがみついてしまいます。もちろん、小説の中のフィリップも同じです。最終的に、ある意味、彼は何も変わってはいないとも言えます。ときには冷酷で、ときには情深い。そんなあらゆる二律背反の間を、彼は揺れ動いている。彼に言わせれば、無意味なりにペルシャ絨毯の模様を織ろうと。あとで振り返ったら、それなりの美しさのある模様になっていればいいなと。

 

このような古典的名作は、もっと若いときに読んでいればよかったなと思いました。次、機会があれば、モームの短編集、『ジゴロとジゴレット』あたりを読んでみたいと思います。

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

弓の道におけるドラゴンボール的寓話 中島敦「名人伝」

たまに発作のように中島敦の小品を読みたくなるときがあります。小品といっても美しく磨かれた珠のような佳作。佳作というか名作。無駄なく、欠けているものもない構成美と、「何々である」と野暮な解説をさせる気も失せる深淵さ。謙虚さ。そんなものを湛えている彼の作品と触れ合いたくなってしまいます。

以前「山月記」を取り上げたのですが、今日は「名人伝」を読んでみました。

 

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やっぱり面白い。読後感も上品な余韻の残り方。「名人伝」について、少しお話ししてみたいと思います。

 

 

「名人伝」の簡単な紹介

紀昌は、天下一の弓の名人になろうと思った。飛衛に弟子入りする。飛衛は百歩を隔てて柳葉を射るに百発百中するという達人。飛衛は紀昌に命じる、まず瞬きせざることを。紀昌は機織り台の下に潜りこみ、妻が動かす器械の上下するのを凝視し続けた。二年ののち、熟睡しているときでも紀昌の目は見開かれ、彼の目の睫毛と睫毛の間に小さな蜘蛛の巣ができた。

紀昌は飛衛に報告すると、次には、視ることを学べと言う。紀昌は一匹の虱を頭髪で結び、窓にかけ、睨み続けた。三月後、その虱は蚕ぐらいの大きさに見えた。三年後、虱は馬のような大きさに見えていた。表に出ると、人は高塔のようであり、馬は山であり、豚は丘みたいで、鶏は城塞のようだった。そんなに大きく見えるのだから、窓に吊るした虱を射損じるわけはない。矢は見事に虱の心の臓を貫いて毛も切れなかった。

紀昌は師に報告する。それからようやく射術の奥儀秘伝が授けられた。……このように弓の名人を目指す紀昌の辿り着いた境地とは。

 

弓における「ドラゴンボール」的成長

このように、紀昌は単純で長期間にわたる過酷な特訓を行って、弓の名手として次々とハードルを克服してゆくのですが、それがちょっと漫画の「ドラゴンボール」っぽくていいんですよね。悟空がヤムチャを乗り越え、亀仙人に敗れ、亀仙人の下で修業し、カメハメハを身につけ、いろんな強豪に勝ったり負けたりまた新たな修行をして成長してゆくドラゴンボールスパイラル的要素がちょっとある。いや、それを超えているかもしれません。だって、ドラゴンボールでは、闘わずに相手を視ただけで倒す、とか、次元の違った肉体戦でない戦闘に移行するとか、ないはずですから(私の見ていないところで、もしそういうのがあったらすみません)。

 

オチが素敵

ネタバレになるのでその後紀昌がどんな修行をし、どんな腕前になってゆくのかとか、そういう展開については言えないのですが、紀昌が本当の弓の名人として帰ってきたときと、オチになっている晩年のエピソードが、いいんですよね。

紀昌は弓を携えていない理由を訊かれ、こう答えます。

至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなしと。

この返答もカッコいいのですが、この短編が完全に老荘思想が根底にあることを指し示してもいて、スマート。そして引用はしませんが、だいぶファンタジーです、作品世界そのものが。純東洋ファンタジー。何でもありの世界です。

ラストの晩年のエピソードでのオチが秀逸すぎて、そのよさは読んでいない方には伝えにくいのですが、「何かを極める」ということが結局何を意味しているのか、考えさせられます。究極まで行くとどういうことになるのか。ぜひご自身の目でご覧になってみてください。

 

 

今週コロナワクチンを接種したのですが、ワクチンを打ったのか、コロナにわざわざかかりに行ったのか、わからないような発熱をしてしまいました。もう個人的にはワクチンはいいかな、という結論に達しています。

 

そんなわけで取りかかっている本の読書もほとんど進まず、中島敦先生に逃げてしまいました。今は熱が落ち着いているので、ぼちぼち続きを読んでみたいと思います。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

村上春樹がチャリティーで朗読した理由 「めくらやなぎと、眠る女」(短編集『レキシントンの幽霊』)

イントロダクション

昨年村上春樹と川上未映子によるインタビュー集『みみずくは黄昏れに飛びたつ』を読んでいて、1995年阪神大震災後、神戸と芦屋での2回のチャリティー朗読会の合間に短編「めくらやなぎと眠る女」が短く書き直され、「めくらやなぎと、眠る女」として朗読されたのを当時書店でバイトしていた川上未映子が会場で聞いていたということを知りました。

『レキシントンの幽霊』の中でも〈めくらやなぎのためのイントロダクション〉としてそういう経緯は書かれており、「(この作品はその地域を念頭に置いて書かれたものだからです)」と言及されているものの、被災者の前で読み上げるわけだから作品そのものにメッセージがこめられているはずだと考え、この短編を再読してみようと思いました。

そのイントロダクションでは元の「めくらやなぎと眠る女」が所収されている短編集『蛍・納屋を焼く・その他の短編』の表題作「蛍」と《対になったもので、あとになって『ノルウェイの森』という長編小説にまとまっていく系統のもの》と語られています。《ストーリー上の直接的な関連性はありません》とも。

 

 

簡単なあらすじ

二十五歳になった「僕」は五年ぶりに故郷に帰った。十一歳下の中学生のいとこは(精神的?)難聴を抱えており、新しい病院での治療のつき添いを伯母に頼まれる。いとこの診察中病院の食堂で庭の風景を見ていると、八年前の別の病院での出来事が浮かび上がる。それは友人に頼まれて同行した彼女のお見舞いだった。友人の彼女はその夏めくらやなぎが繁る丘の家で眠り続ける女の長い詩を書いていた。彼女へのプレゼントのチョコレートは暑熱で溶けてしまっていた。そんな思い出を再生させながら帰りのバスを待っているとき、「僕」はいとこに強く腕を掴まれる。「大丈夫?」そのいとこの助けによって「僕」は立ち上がれる。「大丈夫だよ」と。

 

感想

①何かをしなくてはならなかったはずだ

本作品を読んでいて一番ストレートで(少し話の線からずれるぐらい露骨に訴えられている)読者(少なくとも私)に語りかけてくるのは、帰りのバスを待っているときに考えていた八年前の後悔です。

そしてその菓子は、僕らの不注意と傲慢さによって損なわれ、かたちを崩し、失われていった。僕らはそのことについて何かを感じなくてはならなかったはずだ。誰でもいい、誰かが少しでも意味のあることを言わなくてはならなかったはずだ。でもその午後、僕らは何を感じることもなく、つまらない冗談を言いあってそのまま別れただけだった。そしてあの丘を、めくらやなぎのはびこるまま置きざりにしてしまったのだ。

友だちの彼女が当時受けた胸の手術のあと、どうなったかは、まったく書いてありません(「その友だちは少しあとで死んでしまった」とあります)。しかしイントロダクション通りに読めば、精神的病から自殺したのでは? と憶測してしまいます。また、彼女が語るストーリーによれば、めくらやなぎがはびこる丘で眠る女を救いに行くのは、友だちではないとのこと。ということは、消去法的にその場にいたもう一人の「僕」ということになるかもしれません。「僕」に何らかの責任があったのだと。書かれていない空白の時代に、「僕」は何かをしなくてはならなかったはずだ、との自責の念が書かれているとも読めます。

これを95年当時の朗読会場に置き換えると、作者(村上)は《でもここにだけは、いるわけにはいかないんだ(傍点あり)》という思いで神戸に背を向けたのだけれど、神戸に対して、「何かをしなくてはならなかったはずだ」との自責の念を抱いている、との告白のようにも想像できます。

 

②いとこに救われる

この小説の冒頭18行の出だしパートで、「僕」といとこが互いに深く傷つき、そして「僕」がいとこを少し疎んでいる気配が痛いほど伝わってきます。でも「僕」はいろんな意味でいとこを助けなくてはならない理由が存在し、彼を新しい病院へと連れていきます。もちろん「僕」もそれに抗うつもりはない。できるだけいとこのためになれたらと思い行動します。

そんな助ける、助けられるの関係が、ラスト、唐突に逆転し、いとこに「僕」は助けられます。

いとこが僕の右腕を強い力でつかんだ。(傍点あり)

それをきっかけに、「僕」は罪深い過去の思い出から、現実世界へと、営みを再開することが可能になります。

これを同じく95年当時の朗読会場を想像しながら読むと、被災者たちによって作者(村上)は精神的に逆に助けられた、という告白とも読めます。

「僕」と友達と彼女の間では、互助関係がうまく成立しなかった。いま、「僕」といとこの間では一方的に助け助けられるだけでなく、互助関係が成立している、と。また、しなくてはならないと。

そんな思いで旧短編作(約八十枚ばかり)を四十五枚ほどに短くする過程で、書き改め、読み上げたのではないでしょうか。

読書のいいところは、「間違った」読み方など存在しないことです。どう解釈してもいいという自由を与えられています。その上での、一つの読み方だと。

 

 

作者(村上)は、世間で思われているかもしれない、家にこもって小説を書いていればいいんだ、という社会的デタッチメントの作家というイメージを持たれがちですが、彼の発言や活動を見ると、けしてそうでないことがわかってきます。そういう文脈で見ると、震災後にチャリティー朗読会を行ったこと、そしてこの作品の意味合いがよりわかるのではないかと思って、再読してみました。

 

今夏、『めくらやなぎと眠る女』というタイトルの外国アニメが公開されるようです。

www.eurospace.co.jp

どうやらいろんな村上春樹原作の小説を基にして作られた作品のようですね。

 

関東の暴風は収まったものの、みなさんお体を大切にされてください。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

誰もがインストールされている「能力主義」の危うさ サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』

 

『実力も運のうち 能力主義は正義か?』 マイケル・サンデル 鬼澤忍訳 ハヤカワ文庫

 

いやあ、面白かったです。どういった種類の面白さかというと、知的丁寧さと思慮深い論考によって、「自分はこれまでだいぶ間違っていたのではないか」と自責すら覚える内省を促す内容であったことです。ですので多くの部分をじっくり読みこまされました。

 

だいぶ内容が厚い本でしたので、各章ずつ、著者が書きたかったことと、たまに私の感想などを交えて、本書を紹介してみたいと思います。

 

 

序章――入学すること

本章では導入(引きつけ)として、2019年にアメリカで起きた不正大学入試事件を説明し、その背後に潜む社会的な能力主義的信念が存在することを浮かび上がらせています。

だが、彼ら(不正に手を染める親)はほかの何かを望んでいた。それは、名門大学への入学が与えてくれる能力主義の威信である。

また、能力主義の行きつく感情を次のように表現します。

われわれは自分自身を自力でつくりあげるのだし、自分のことは自分でできるという考え方が強くなればなるほど、感謝の気持ちや謙虚さを身につけるのはますます難しくなるからだ。こういった感情を抜きにして、共通善に配慮するのは難しい。

 

第1章 勝者と敗者

本書はイギリスでのブレグジット、アメリカでのトランプ当選による労働者階級のポピュリズムへの感情的反動(エリートへの憎悪)を問題視し、それ以前のアメリカ・民主党のオバマ、クリントン両大統領、80年代のレーガン-サッチャー時代にまで遡り、政治家たちの姿勢を批判したことから始まったとも読めます。

技術家主義(テクノクラシー)と市場に優しいグローバリゼーションによる施政が見落としていたもの。それは労働者の社会的敬意だと。

 

第2章 「偉大なのは善だから」――能力の道徳の簡単な歴史

能力主義がもたらす必然として、「人間の主体性に関する心躍る見解」があるが、それは過度な自己責任という考えも与える。

著者は能力主義の歴史を聖書『ヨブ記』からピューリタン、「繁栄の福音」といったキリスト教的観点や、現代の政治家たちの言説から紐解きます。

 

第3章 出世のレトリック

つまり、成功は幸運や恩寵の問題ではなく、自分自身の努力と頑張りによって獲得される何かである。これが能力主義的倫理の核心だ。(中略)だが、これには負の側面もある。自分自身を自立的・自足的な存在だと考えれば考えるほど、われわれは自分より恵まれていない人びとの運命を気にかけなくなりがちだ。

この章では現代でどれほどこの能力主義がまかり通っているかを書きます。

 

第4章 学歴偏重主義――容認されている最後の偏見

大学が与える学位の威信がどれほどありがたがれているか、またオバマ大統領が「賢明(スマート)な」というフレーズをどれほど繰り返し用いたかといったタイトル通りの現状が語られます。

 

第5章 成功の倫理学

この章がいちばんグサッときました。

「能力主義(メリトクラシー)」という用語はイギリスの社会学者・マイケル・ヤングの1958年『The Rise of the Meritocracy』が最初で、その中でヤングは2033年から過去を振り返る形で能力主義が蔓延したらどうなるかというディストピア的世界を描いています。

「現代に特徴的な問題の一つは、能力主義社会のメンバーの中に……自分自身の価値に陶酔するあまり、彼らが統治する人びとへの共感を失ってしまう者がいるということだ」「あまりにも無神経なせいで、力量に劣る人びとでさえまったく不必要に気分を害されている」

天賦の才も、努力できる環境も、「運」なのに、それを自分の手柄にしてしまう。努力自体も、「努力できる遺伝子」が存在すると現今では言われています。それをたまたま持っていなかった人たちを、たまたま持っている人たちが、見下す、というわけです。

この能力主義に代わる二つの考え方が現在存在していると著者は言います。

  • 自由主義リベラリズム
  • 福祉国家リベラリズム

いわば、アメリカの政党で言えば、共和党と、民主党ということなのでしょう。しかしこれらは結局脱能力主義に成功していないと著者は考えます。現実の政治でもそうですね。

私は、本書を読んで、自分自身が無自覚にどれほど能力主義の信念を持っていたか、学歴偏重主義者だったか、また、主義としては福祉国家リベラリズムであったことを思い知らされました。それらを当然のことと考えていましたが、著者により、それらが産む弊害にようやく思いをいたすことができました。自覚してすぐにどうこうならないほど染みついているとも感じますが、気に留められることは重要です。

 

第6章 選別装置

この章では高等教育での能力主義の歴史・現状と、それへの解決案を示しています。

勝者も受験勉強により精神的に傷を負い、敗者も屈辱感を抱える。著者は入学をどれだけ公平にするかでなく、ある程度以上の絞りこみはくじ引きのような「運」の要素を持たせることによって、名門大学入学や学位が持ってしまう過度な威信を下げる効果を期待します。「何だかんだで運なんだよな」的な感覚を共有できるのではないかと。

それと並行して、大学とは別の職業訓練学校などへの補助金を大幅に増やすべきだと著者は考えます。それにより充実するとともに、威信が上がるわけです。

 

第7章 労働を承認する

マイケル・ヤングは前出の著書で次のような意味のことを書いています。

「能力をあまりに重んじる社会で、能力がないと判定される」のは辛い。「底辺層の人々が、道徳的にこれほど無防備なまま取り残されることはかつてなかった」

いかなる労働においても社会的尊厳を回復する必要があるのですが、現在二つの政治方針案があると言います。

一つが低賃金労働者への賃金補助(給与税の対極)と労働市場の創出。

一つが金融活動への課税。金融は実質生産していないという観点からです。

政治・経済にはだいぶ私は疎いので、これらの策がどれほど現実的でどのくらい「共通善」を取り戻すのかはわかりませんが、教育・労働においてはっきりとした代案を示せるのは勇気がいるし「生産」していることになります。私としては著者を讃えざるをえません。

 

結論――能力と共通善

機会の平等に代わる唯一の選択肢は、不毛かつ抑圧的な、成果の平等だと考えられがちだ。しかし、選択肢はほかにもある。広い意味での条件の平等である。それによって、巨万の富や栄誉ある地位には無縁な人でも、まともで尊厳ある暮らしができるようにするのだ――社会的に評価される仕事の能力を身につけて発揮し、広く行き渡った学びの文化を共有し、仲間の市民と公共の問題について熟議することによって。

これだけが「結論」なわけではないのですが、本書の文脈の中で読むと、この個所が響いてきます。この訴えが、現実的なものか、夢想的なものか、読む者が判断するべきことなのでしょう。「共通善」という現代の政治論議では排除されてきたものを考え続けてきた著者の意欲とひたむきさが印象的です。

「神の恩寵か、出自の偶然か、運命の神秘がなかったら、私もああなっていた」。そのような謙虚さが、われわれを分断する冷酷な成功の倫理から引き返すきっかけとなる。能力の専制を超えて、怨嗟の少ない、より寛容な公共生活へ向かわせてくれるのだ。

 

 

一つだけ断っておくと、サンデルは能力主義の全否定や努力を認めていないわけではないのです。能力主義に100%振り切った場合(振り切っている現状)、こういうことが起きているわけですよと注意を喚起しています。

 

次はモーム『人間の絆』を読んでみたいと思います。

上下巻で読みごたえがありそう。

 

今週からは気温が回復するみたいです。少しずつ体を慣れさせていきたいものです。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

わからないけれどわかる男心 強者は弱者と心を通ぜられるのか? 白石一文『一瞬の光』

こんにちは。

雨が降っています。

全国的に快晴というところはなさそうな祝日。

いかがお過ごしでしょうか。

『実力も運のうち 能力主義は正義か?』を読んでいるのですがこれがなかなか読みごたえがある。私の「能力」だと一日に頑張っても2章しか読み進められないペースなので、今日は気分を変えて昔贈っていただいた本の紹介をしたいと思います。

 

『一瞬の光』 白石一文 角川書店

 

奥付を見ると平成十二年一月十日初版発行とありますので、2000年発表ということになります。

白石一文先生はこれ以前に純文学の世界でデビューしておりますが、本名名義で再びこちらの書籍でエンターテインメント小説でデビューし直しました。翌年、私がお会いしたときはまだ文藝春秋社に籍を置かれていまして、兼業で作家活動をされていました。私もそうでしたが、少しお体の具合がよろしくない様子が印象に残っています。それでもお時間を割いてくださり、懇切にお世話いただきました。

 

当時読んだときと、今、この作品と向き合うときとで、感想が異なりますので、そのへんのことなどについて書いてみたいと思います。

 

 

簡単なあらすじ

エリートサラリーマン・橋田浩介は男から見て非の打ちどころのない美女・藤山瑠衣と交際している。ふとしたことで知り合った複雑な家庭環境の短大生・中平香折に魅かれる。浩介は香折に愛を覚えるが、あるとき事件は起こり……。

 

23年前の感想

話のストーリー通り、浩介目線で、香折を気にかける彼の心情に同調し、読めました。男のやさしさといいますか、つい、香折のような自分が手を差し伸べなければ折れてしまう凍った一本の花のような女性を、愛してしまう。その強者男性と弱者女性といいましょうか、二人のいたわりの関係が、ラストの展開とシーンによって印象づけられていると。率直に言って、グッときました。

 

結末改変について

白石先生の関係者の方から伺ったのですが、刊行より24年たっていること、内容的に、オフレコではないと判断した上で記すのですが、当初の原稿では、その「事件」はなく、浩介と香折は幸せに暮らすという結末だったようです。

私はそれを知らされていない段階で読んだので、むしろ、その展開に夢中になって巻きこまれ、最後、「これでよかったのか?」と考えさせられる側面もあり、偉そうに聞こえるかもしれませんが、感心してしまいました。ふむ、なるほどと。一読者としても、心に残り続ける映像のようなものが届けられました。

しかし、それが編集者の指摘により、現在のように書き換えられたとのこと。私はまず作者である白石先生の心情を考えました。書き直して最終的に出版したということは、それは契約上は同意した上でということなのですが、心情的には、複雑なものがあったに違いありません。しかも、私のような読者――つまり、その改変によって作品の魅力が上がったという意見の持ち主――がいる、という事実によって、だいぶ入り組んだ思考をめぐらせたであろうことは想像可能です。白石先生は、もしかしたら、純文学の頭のモードから、エンタメ小説の頭のモードへの移行期だったのかもしれません。これは単なる推測にしかすぎません。そして、それを刊行前後に乗り越えたのだと。

確かに、起承転結、ドラマツルギー的には、その「展開」がないと、おかしなことになります。グラフで言えば上方向か下方向かは読者それぞれの見方に委ねられますが、どちらにしろ小説開始時からラストまで斜線が引かれるだけです。その展開によって、劇的、文字通り、「劇」が生まれるわけです。そこを決定的な境目として分かたれる前とあとが生じるわけです。そのせいで、最終部分の静的なシーンが印象に残ります。

そんなある意味自明のこと、そして個人的な感想をすべて白石先生に話したわけではないのですが、微妙な表情をされていたのを記憶しています。

 

現在の見方

普通に、一読者として、また、中年の男性として、「自分だったら浩介と同じ行動を取るか? 同じ選択をするか?」という疑問に対しては、何とも言いがたいものがあります。小説世界で起きたことを現実世界でも起きたと仮定して、自分がどう振る舞うか。23年前と同じく、感情移入できるかどうか。判別しがたい。

推薦の帯を村上龍氏が書いていますが、

自由主義経済は必然的に弱者・犠牲者を生む。この小説は、絶対的に弱者の側に立とうとする人間を描いていて、それが楽観的すぎる思いこみか、あるいは希望へと繋がるものか、その判断は読者に委ねられている。

とあります。

私の迷いは、23年前は「希望へと繋がる」読み方をしていたのに対し、現在は「楽観的すぎる思いこみ」の読み方をするんじゃないかという惧れです。この両項のバランスを取ってこそ、人は理性を保っていると現在の私は考えます。そう踏まえますと、いろいろ考えさせられることでしょう。

 

 

白石先生のサインを見ると、温かく接してくださった一人の人間・白石一文の人柄が偲ばれて、感謝の念を思い起こさずにはいられません。

 

 

出会いが人生を導くと、四十後半になると、つくづく思います。これからも白石先生のご活躍を応援しております。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。