シンパシーとエンパシー
みなさんは「共感」という日本語、どのように使われますか。
「今の日本の政治家の話し方にはまったく共感できない」
「この監督の一つ前の作品には共感できなかったけど、今回のには共感できた」
「この投稿に共感していいねボタンを押してしまった」
とりあえず3つ、私なりに適当に「共感」を用いて文章を作ってみましたが、これらの「共感」は英訳すると、おそらく"sympathy"になります。ところが他方、英語ではもう一つ「共感」と訳される単語があります。"empathy"です。
英語圏でもこの"empathy"という言葉、大変定義及び解釈が複雑になっているようです。8種類あるという学者もいるほど。著者は次のように4つに分類してみせます。
- コグニティヴ・エンパシー 他者の考えや感情を想像する能力。
- エモーショナル・エンパシー 他者と同じ感情を感じること。
- ソマティック・エンパシー 他者の痛みや苦しみを想像することによって自分もフィジカルにそれを感じてしまうというもの。
- コンパッショネイト・エンパシー 他者が考えていることを想像・理解することや他者の感情を自分も感じるといったエンパシーで完結せず、それが何らかのアクションを引き起こすこと。
日本でたいてい使われている「共感」=シンパシーは、この中の⒉エモーショナル・エンパシーであり、著者が本書で扱いたいのは⒈コグニティヴ・エンパシーだと言います。
エンパシーは種類によっては危険
『反共感論 社会はいかに判断を誤るか』(高橋洋訳、白揚社)でポール・ブルームはエモーショナル・エンパシーの危険性を指摘していると言います。
事件の被害者の気持ちに共感しすぎた挙句容疑者が護送される車に生卵をぶつけに行く人は、もしかしたら不幸な事件は忘れて一刻も早く元の生活に戻りたい被害者や家族の迷惑を考えていないのかもしれない。
1人の子供が欠陥のあるワクチンで重病にかかって苦しむ姿を見てワクチン接種プログラムの中止を叫び、そのために数十人の任意の子供たちを殺すようなことをさせてしまうかもしれない。
シンパシー=共感、は問題がありそうです。他方、エンパシー(コグニティヴ・エンパシー)は自然発生的な共感でなく、想像力を使って理解しようとする能力ですから、能力の使い方、ということになるのかもしれません。
エンパシー能力は後天的なもの
坂上香監督のドキュメンタリー『プリズン・サークル』で、受刑者同士が加害者役、被害者役、被害者の家族役などのロールプレイをする中でエンパシー能力を向上させていくさまが見て取れると著者は驚きます。
また、「I(わたしは)」という主語を使って本当の言葉を発する、自己開示する、主体性を回復する過程が見られると。
「I」の獲得と、エンパシー能力の向上に、著者は「利己的になることは利他的になること」を見出します。
コロナ禍の中でハンド・サニタイザーやトイレットペーパーや保存食の買い占めに走ることは、医療従事者を圧迫し、貧困層の健康を低下させることで回り回って自分に被害が増える可能性をエンパシーによって理解できるはずだ、つまり、「利他的になれば利己的になる」はずだと著者は考察します。
サッチャーにはエンパシーがなかった
BBCのドキュメンタリーで、サッチャーの私設秘書を務めたティム・ランケスターが、
「彼女は、シンパシーのある人だったが、エンパシーのある人ではなかった」
と証言しているらしいです。
「鉄の女」サッチャーは、実は官邸のお抱え運転手や自分の身の周りで働く人々にはとてもやさしく、思いやりのある人物だったらしい。
他方、SDP(社会民主党)の創設者デヴィッド・オーウェンは、彼女がやさしかったのは、官邸で働いていたスタッフはみな各分野で成功を収めていたり優秀だったからだと言います。
「それら(優秀なスタッフたちの不幸や問題)は彼女の理解の範囲内だった。彼女の性格的な弱点、そして首相としての弱点は、様々な段階で助けを必要とする人々が、おそらく人口の10%から20%は存在するということを、けっして本当には理解しなかったことだ」
ここにエリートによる能力主義が陥るエンパシーの欠落を重ねられそうです。
アナキズム=自分を手放さない
アナキズムは、「無政府主義」と訳されますが、巻末に「アナーキー」について著者の意見が述べらています。
「アナーキー」は暴力や無法状態と結びつけて考えられやすい。しかし、その本来の定義は、自由な個人たちが自由に協働し、常に現状を疑い、より良い状況に変える道を共に探していくことだ。
このような「自分を手放さない」人がエンパシーを働かせることによって、相互扶助が可能になると著者は言います。
自分は自分。他者とは決して混ざらないということである。その上で他者が何を考えているのかを想像・理解しようとするのだ。
これが著者が唱えたい「アナーキック・エンパシー」ということなのでしょう。
エモーショナル・エンパシーは搾取される
エモーショナル・エンパシー=シンパシーに長けた人は、受動的な「鏡」になりがちだ。それだけに、そういう個人が強烈な自我を持つ他者と出くわすと――本書では米国トランプ大統領時代を例に出しています――自分を明け渡してしまう。それは一対一の場面だけでなく、組織内の上と下の関係にも表れる。国の中での政府と労働者との関係にも言える。組織は、エモーショナル・エンパシーの搾取によって成り立っていると、著者は考えます。
だからこそ、著者は「エンパシーとアナーキーはセットで」と書きます。
ブレイディみかこさんは、多国籍なイギリスで子育てをされた経験を書いた『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』で有名な作家さんです。
その本の252ページの中に4ページしか登場しない「エンパシー」が読者に反響を呼んだようで、「エンパシー」そのものを扱った本書に取り組まれたみたいです。
私も知っているシンパシーと、エンパシーは、どう違うのか。
また、本記事で軽く触れました、「シンパシーの搾取」について興味がありましたので、購読してみました。
本書内に出てくるアナキズムに関心が湧き、やはり本書でも登場するジェームズ・C・スコット『実践 日々のアナキズム 世界に抗う土着の秩序の作り方』(清水展他訳、岩波書店)をほしいものリストに入れてみました。
「エンパシーとアナーキーはセットで」。シンパシーを使いがちな私には刺さった本書でした。
エンパシーは一生かけて磨き続けるべきものらしいので、これから実生活の中で気に留めてみたい思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。