もりじゅんの読書ブログ

読んだことない人には面白そうと、読んだことある人にはヒントの1つをと、作品を紹介できたらと思います

そのときマーロウにはどう見えたか? チャンドラー『大いなる眠り』

レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』で彼の文体に魅了され、初長編作『大いなるお別れ』を読んでみました。

 

mori-jun.hatenablog.com

 

期待していた「文体の精度・密度」は得られなかったものの、主人公・フィリップ・マーロウの性格は知っていたので、描かれる作中の人物・出来事・風景を彼はどう眺め、思い、考え、行動に移していったかに注目して読み進めてみました。そう一文一文注意して読むと、いろんな発見があって驚き。この記事では、マーロウ視点に重点を置いて本書を紹介してみたいと思います。

 

 

簡単なあらすじ紹介

私立探偵マーロウは資産家の将軍に呼び出され、次女がしでかした不始末――借金の揺すり――を解決するべく、捜査を開始する。それは長女の失踪した結婚相手の捜索とも結びつき……。

 

感想・気づいたこと

ハードボイルドな感情表現

当然といえば当然のことなのですが、ハードボイルド小説では直接的な感情表現は行われません。例えば、登場人物が驚いたとき、「(私は)驚いた」「(彼は)驚いた表情をして」という記述は普通なされません。極めて間接的にか、大仰な言い回しをして、それはなされます。1章でマーロウが将軍邸に呼ばれそのイカれた次女の奇矯な行為に驚くシーンがあるのですが、

私は驚きのあまり落ちた下顎をなんとか胸から押し上げ、彼に向かって頷いた。

と、「驚き」という単語は入っているものの、オーバーな表現をわざと用いることで、ユニークさや、マーロウ自身の心情に次女への侮蔑や呆れた、といった感情が含まれているんじゃないかという読者の類推を許させています。

このように、マーロウはストレートには自分の思っていることや意図を語ることはしません。ですから、読者は「この話し相手の会話文を聞いて、書かれてはいないけれど、彼は心中どんなことを思っただろう?」などといちいち想像を膨らませながら読むことを求められます。丁寧に読むのならば。

面倒臭いけど、読みがいがある。けして考えて答えに結びつかないときもあるけど、考えて読んだ方が読み違えてページを戻すことが少なくなるから、結局そうした方がいい。すらすらと進めなくても憶測好きは迷路の間を歩いているような体験をできます。

 

細部へのこだわり

また、そうやって一つずつ考えながら読んでいくと、ディテールが異常なまでに指示されていることに気がつきます。

22章では、長女が交際のあるインテリヤクザの経営する賭場でルーレットの大勝ちをするシーンがあるのですが、冒頭、話とはまったく関係ない会場でルンバを演奏するメキシコ人の楽団の描写がなされます。

あとの四人は申し合わせたようにいっせいに身を屈め、椅子の下からグラスを取り、それを一口すすり、うまそうに唇を鳴らし目を輝かせた。飲みっぷりからするとテキーラのようだが、実際はたぶんミネラル・ウォーターだろう。そんな芝居は、彼らの音楽と同じくらい無益だった。誰も見ていなかったのだから。

活き活きとした、あるいは額に汗しているメキシコ人たちの顔が浮かぶようですが、繰り返しますが話の本筋からすると脇道にだいぶ逸れています。マーロウの目にはそう細かく映った、といったことを、このようにしつこくしつこく積み上げていきます。読者は自然、現実世界の無秩序さに似たものを覚えさせられます。リアリティーが生まれるわけです。

 

マーロウが差し出したもの

そんなマーロウがこの小説世界を生き抜く上で大切にしているものは何でしょう。

読んでいて、以下の会話文が鮮明に目に飛びこんできました。

「それっぽちの報酬のために、君はこの地域の法執行組織の半分を敵にまわそうというわけか?」

「好きでやってるわけじゃありません」と私は言った。「しかしそれ以外に何ができるというんです? 私は依頼を受けて仕事をしています。そして生活するために、自分に差し出せるだけのものを差し出している。神から与えられた少しばかりのガッツと頭脳、依頼人を護るためにはこづき回されることをもいとわない胆力、売り物といえばそれくらいです。(後略)」

たしかに、最後まで読んでも、マーロウは依頼人のために、それらのものを差し出しています。では彼はなぜそれを差し出さねばならないのか? 何のために差し出すのか? 結局、マーロウはマーロウが抱えるモラル(自己規範)のためにそれを差し出しています。そしてそうすることにより得られる自由のために差し出します。マーロウは、タフで、頭の回転の速い、だいぶシニカルな男です。でも、それとコインの裏表のように、人情に厚いところも持ち合わせています。あと反骨心。つまるところ、マーロウは依頼人のために自分の有能な面だけでなく、むしろ、いたわりの心を届けているのではないでしょうか。セットで不服従も。依頼人からしたらいたわりだけを受け取りたいところですが、マーロウは反骨精神とセットで報います。そこが、マーロウの不思議といいますか、憎めない、いや、憎いところです。

 

ラストの展開の手際のよさ

最後に、『ロング・グッドバイ』のときもそうでしたが、結末数章分での意外な展開が畳みかけられ唐突に終わる、という心憎い幕引きについて少し書きたいと思います。

マーロウの複数事件にまたがる全体の推理は、その都度、その都度で書き換えられていくのですが、ラストに、大規模なアップデートが行われます。その大胆な展開に読者は驚くわけですが(推理小説の醍醐味ですね)、だらだらと余韻を引き延ばすタイプのエンディングではなく、カットをバサッと切ってエンドロールが流れる映画のようなタイプの締めくくり方がされます。それが潔くてカッコいい。「男」のマーロウを書いているチャンドラーもまた「男」を感じてしまいます。「それまでは適当に流してたんだぜ、俺は」と葉巻でもくゆらせながら低音で言うチャンドラーの妄想の顔が浮かぶほど。これが2回目ですので、クセになる人の気持ちがわかってきました。

 

 

ひとこと、余裕があったら次『さよなら、愛しい人』を読んでみようかなあ。

 

 

明日から関東地方ではしばらく雨模様のようです。気温も戻るようです。みなさんお体にお気をつけください。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

面白がれるポイント満載 森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』

2006年刊行、翌年山本周五郎賞受賞、並びに本屋大賞2位だった本書を読了しました。

裏表紙の概要文に「キュートでポップな恋愛ファンタジーの傑作」とありましたが、頷ける内容。普段あまり読まないジャンルの小説だったので、「面白がらせ方」を面白がる読み方になっていたかもしれません。それでも十分楽しめました。どんなところが面白がれるか? という点から本書を紹介してみたいと思います。

 

 

⒈ ファンタジーの生じ方、消え方が面白い

これまで私はファンタジーは西だと『指輪物語』、東だと『水滸伝』といったような王道しか読んできませんでしたが、ファンタジー要素の扱い方が面白かったです。

『指輪物語』も、『水滸伝』『里見八犬伝』もそうですが、舞台は初めっから「現実ではないところ」から始まります。その上で「ありえないこと」が起こります。対して本作では、現実と見まがえるような位置からスタートしています。のちになって「もともとファンタジー世界だったんだ」と気づくにしても。そのリアリズムとファンタジーの混ざり方が楽しめました。

第一章で登場人物の樋口が「現代の天狗」芸を見せるあたりから、「あ、この作品世界ってそういうことなのね」という明確な意識が読者に根づきます。そのあとファンタジー路線は突っ走り、「叡山電車を積み重ねたような三階建の風変わりな乗り物」に代表されるような世界へと読む者を誘います。そしてまた、リアリティーが戻ってきて終わる、といった構図になっています。

マジックリアリズムという概念があるのですが、こんなに自然にもリアリズムとファンタジーを溶け合わせた作者の脳内というか、手腕に見事なものを感じてしまいます。

 

⒉ ライトな擬古典調の文体

それを支えているのがもしかしたら本書を紡ぐ上で使われている文章のテイストかもしれません。

擬古典調と書きましたが、普段我々が実生活で使わないちょっと古めかしい言い回しや単語の選択がなされ、違和感を頭っから覚える書き方がなされています。そのズレが、うまく手伝って、どこまでヘンになっていっても、ヘンではないように、私たち読者をフィットさせてくれているのかもしれません。

といっても、一文を抜き出して、「こんなに変わった文体だ」と誇示するほどヘンでもない。悪趣味になりすぎず、品よくちょっと古典調の文章で話は語られます。

 

⒊ 京都の味が濃い

また、私は京都は修学旅行で訪れたことしかなく、どこまで本物の京都なのか判別はつきませんが、東京に暮らしていて実感を持つことが少し難しい京都の市井の文化の匂いのようなものを感じてしまいます。リアリティーをまざまざと感じさせない、地名、達磨などの日本的なアイテム、古本市で並ぶ好事家が食いつきそうな書物の名前など、ラムネ、偽電気ブランなどの由緒ある飲み物・食べ物、そういった品々が頻出することによって成り立つ異化効果のようなものがファンタジー色を背中からあと押ししてくれます。実際に、京都にお住まいの方には、「京都の大袈裟なところばかり出しすぎや」となるのか、ならないのかは、私にはわかりません。少なくとも、非日常感を助長してくれています。

 

⒋ 登場人物のエゴは真正面からは出てこない

これは、言い換えると、悪いやつは一人も登場しない、ということになるのかもしれません。主人公二人、「先輩」と「黒髪の乙女」のそれぞれの「私」から交互にストーリーは話されていくのですが、彼女を恋う「先輩」も、追いかけられている「黒髪の乙女」も、ドロドロとした情念をたとえ抱えていても、適度に前述した「擬古典調の文体」の中で変換され、ポップな淡い印象しか残しません。「黒髪の乙女」にいたっては、「先輩」の思慕が造り上げたキュートな女性像が現実化したんじゃないかと疑いたくなるぐらい恬淡としたものです。そんな彼らを取り囲むクセの強い登場人物たちも、どこかエゴは持っているんだけれども、憎めないキャラ設定になっています。あるいはあっても書かないようにしています。そこが、本書をすらすら読めるものにしているのかもしれません。

 

⒌ 結局純情なんだな

主人公たちの恋の行方は書きませんが、結局どちらも純情なんだなと安心(いや、逆に不安にさせる?)させる性格の持ち主です。そこが本作を読んでいてほんわかとした気分にさせる大きな要素なのでしょう。しかし、最初から言っているように、ファンタジー。そこをわかった上で楽しめるか、楽しめないかも、一つ試されるところではあるかもしれません。

 

 

あと、複線回収がちゃんとなされて各章最後には大団円を迎える、等の読んでいて面白さと巧さを感じさせる部分など、他にも魅力はいろいろありますが、てんこ盛りにしすぎても、一つ一つのよさが薄まってしまうような気もしますので、5つのポイントに絞って考えてみました。

自分は他にもこういうところが楽しめた、などいろいろな見方があると思います。そういうものを発見すること、違いが生まれることが、読書の楽しみ方の一つにあることは間違いないでしょう。

他の方の感想も読んでみたいものです。

 

関東では今週気温が急激に上がり、体の体温調節が追いつかなかったからか、私は体調を崩してしまいました。

少し早い季節の変わり目ですが、みなさんぜひぜひご自愛ください。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

理屈でなく感性を書く――禅における二元論を越えた一元へ 鈴木俊隆『[新訳]禅マインド ビギナーズ・マインド』

書影

『[新訳]禅マインド ビギナーズ・マインド』 鈴木俊隆 藤田一照訳 PHP研究所

 

読もうと思った動機

たしかですけれど、自分の瞑想法に、疑問のようなものを抱いて、少し本格的な書物を手に取ってみようと考えた記憶があります。鈴木大拙を調べているうちに、アメリカには、二人の鈴木がいる、もう一人は、鈴木俊隆だと知って、彼の講話を編集した本書を選びました。といっても、だいぶソフトな入門書だと思います。

 

 

この記事を書いている私は仏教には無知

序文、はじめに、を読み進めているうち、鈴木俊隆が曹洞宗の禅僧であることを知りました。ちなみに彼の略歴を簡潔にしてみると、1904年生まれ、1971年逝去。神奈川県平塚市の曹洞宗松岩寺に生まれる。12歳で静岡県蔵雲院の玉潤祖温老師に弟子入り、駒澤大学在学中に蔵雲院住職となる。1959年渡米し、サンフランシスコ桑港寺住職となる。1962年サンフランシスコ禅センターを設立。1971年68歳で同地で逝去。渡米12年の間にアメリカにおける禅の基礎を築いた。欧米では20世紀を代表する精神的指導者の一人とされる。

曹洞宗か臨済宗かどちらか忘れましたが、私の父方の祖父が禅僧の僧籍を持っており、名前も改名しておりました。曹洞宗と臨済宗の宗旨の違いについてもまったく知りません。小学生の頃、祖父に提案されて坐禅を組まされたことがあったのですが、私は足首の固い子供で、ついに組むことはできませんでした。あと、若い頃は、左翼思想の強かったこの祖父にあまりよいイメージを持っておらず、悪いことに、そのついでといいますか、祖父が執着していた仏教・禅・ヨガ・精神世界についてを疎んでおりました。そういうわけで、今現在の私も、禅や仏教全体に対して、ほとんど無知な存在であるわけです。

そういう人間がどう本書を読めたか、という観点で本稿に目を通していただけるとありがたいです。

 

本文の構成

第一部「正しい修行」で身体について、

第二部「正しい態度」で感情について、

第三部「正しい理解」で心について、を語っている。

 

印象に残った箇所

仏教理論でなく、坐禅修行に取り組んでいるときの感覚を表そうとの模索の跡

「はじめに」でも、次のように本書の編集過程での苦労が書かれています。

英語はその基本的な前提において、徹底的なまでに二元論的です。日本語の場合は二元論的ではない仏教の思想を表現する方法を何世紀もかけて発達させる機会がありましたが、英語にはそういう機会がなかったために、この本の編集はさらに複雑になっています。鈴木老師はこれらの相互に異なる文化の語彙をきわめて自由自在に使いこなし、日本的な思考法と西洋的な思考法の両方で自分を表現しました。彼の講話においてはその二つの思考法が、詩的にも哲学的にも一体化していました。

たしかに、本文を読み進めていて、だいぶ頭では理解しがたいところが何度も何度も訪れてきました。それは、論理の整合性で読もうとしているからです。例えば、「東へ一里行くことは、西へ一里行くことである」というある禅匠の言葉は、理屈ではまったくナンセンスです。しかし、これを感性で読めば、何となく引用した鈴木俊隆の伝えたかったことが朧げに見えてきます。「東へ一里行ったら、同じように反対方向の西へ一里行く選択肢の自由を行使したも同じのようなものだ」とでも解釈できますでしょうか。このように、仏教理論でなく、坐禅中の心のあり方のようなものを、「ん?」と幾度も立ち止まらせ読み返さざるをえない記述の仕方をもって、伝えようとする努力が効果的に凝り固まった固定観念をブレイクしてくれます。喩えるなら、「アハ体験」の絵を見破ったときのような感覚です。そのようにして鈴木俊隆は読者の二元論的意識からの脱出を手伝ってくれます。

 

初心者の心

プロローグの「初心者の心」で、初心でもって坐禅に取り組む重要さが説かれます。再び「はじめに」から引用しますが、

禅の書法は、あたかも初心者が書くように、この上なく率直に気取らないやり方で書くことです。技巧を凝らしたり、美しいものにしようとしたりせず、今書いていることをまるで生まれて初めて発見したかのように、ただひたすらすべての注意を注いで書くだけです。

このように「まるで初めてやるように」坐ることが大切だと。これは足を組んで坐らなくても、「今、ここ」に意識を集中する上で、非常に役に立つ感覚だと思いました。「まるで初めてやるように」息を吐いて、吸う。ぜひ活かしてみたいと思います。

 

何にも囚われない柔軟性

第三部「正しい理解」で、一番好ましい意識のあり方が表現されます。29「心の準備、マインドフルネス」では、

私たちの理解で大切なことは、なめらかに、そしてとらわれずに思考するやり方で物ごとを観察することです。淀みなく考え、物ごとを観察しなければなりません。困難なく、物ごとをありのままに受け入れなければなりません。

よくマインドフルネス瞑想では、浮かんでくる思考や感情に対して、それらを放牧地の牛に例えて、暴れないようにそれを狭く柵で囲むのではなく、広々と敷地を空けて柵で囲むようにして観察するのだと言います。そのときに心の中で起こっていることを鈴木俊隆はコンパクトにうまく表現してくれていると思いました。

 

 

読み終わったあと、少し脳がパズルを解き続けたときのような複雑な疲れ方をしてくれます。ゆるい頭で読まないと、読み通せないので、論理性重視の左脳を休め、イメージを用いる右脳を使うことを促しているのかもしれません。

 

次は愉快な小説に目を落としてみたいと思います。

 

ところでウェザーニュースで檜山沙耶さんがお薦めしていた漫画『からかい上手の高木さん』のアニメがコラボしている高木神社のお守りを買い替えてきました。

 

高木神社

高木神社 『からかい上手の高木さん』 お守り

 

今年は実写のTV連続ドラマ、映画と、いろいろ公開されるみたいです。

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

お好み焼きを"平べったいたこ焼き"と言うお天気おねえさんのフォトエッセイ 檜山沙耶『ブルーモーメント』

書影

『ブルーモーメント』 檜山沙耶 ワニブックス

 

購入したいきさつ

2022年夏頃、YouTubeに、以下と似たような動画がサジェストされてきました。


www.youtube.com

 

なんだこのぶっ飛びお姉さん! 面白い! それにこの番組なんだ? と興味がかき立てられたわたしは、すぐさま本チャンネル「ウェザーニュース」へと飛び、檜山沙耶さんをはじめとするお天気キャスターたちの働きぶりに新鮮な驚きを隠せなかったのでした。

www.youtube.com

 

そのうち、番組内ででしょうか、檜山さんがフォトエッセイを出していることを知りました。当時はあり余る好奇心でいっぱいで、Amazonですぐさまポチリました。

ブルーモーメント

ブルーモーメント

Amazon

 

 

檜山沙耶さんの略歴

まず檜山さんとはどのような方なんでしょうか。

本書『ブルーモーメント』の紹介文から要約すると、次のようになるようです。

1993年茨城県水戸市出身。大学卒業後に会計事務所を経て2018年に株式会社ウェザーニューズ入社。現在、『ウェザーニュースLiVE』でお天気キャスターとして活躍中。アニメ、本、漫画、ゲーム、将棋が大好き。

ここに一視聴者としての主観からの情報をつけ足すと、

  • オーディションで弾けないギターを持ってきて、ドレミファソラシドと弾いて、「みなさま拍手でお願いします」と言い会場を沸かせる勇気の持ち主(「このようにわたしは一歩前に踏み出すことに自信があります。また等身大の自分を発揮することをモットーにしています」とアピールした)。
  • 「平べったいたこ焼き」の他にも、「野球は9点取れば勝ち?」など、さまざまな伝説的?トークを残している。
  • その反面、仕事に取り組む姿勢は極めて真面目。談笑から地震速報に移るときのモードの切り替えはプロ意識を感じさせる。
  • サブカルへのオタクっぷりを隠さない。

檜山さんのことをもっと詳しく知りたい方は、ウェザーニュースを見てみてください。

 

ウェザーニュース、ウェザーニューズ社とは

ではウェザーニュースとはどんなチャンネルなのでしょう。

Wikipediaによると、「ライブストリーミング形態の気象情報チャンネル」とあります。

2009年~2018年に配信されていたSOLiVE24が終了して、ウェザーニュースにリニューアルされた。

ニコニコ生放送やYouTubeなどで視聴可能。

スマホアプリ・ウェザーニュース登録者から寄せられたウェザーリポートなどを紹介している。

24時間体制で放送し、キャスターが出るのは5:00~23:00までを3時間ずつで割り振った6タイムテーブルとなっている。

 

経営企業ウェザーニューズ

そんなウェザーニュースはウェザーニューズ社によって制作されています。1986年設立。民間総合気象情報サービスの草分け的存在。創業者・石橋博良の息子で副社長の石橋知博が番組総合プロデューサーを務めている。

 

『ブルーモーメント』目次

はじめに

【1章】ウェザーニュースキャスターのお仕事

【2章】等身大の檜山沙耶①

【3章】檜山沙耶の歩み

【4章】等身大の檜山沙耶②

【5章】檜山流・天気の楽しみ方

【6章】仲良し同期対談 檜山沙耶×駒木結衣

おわりに

 

わたしが一読者として思ったこと

⒈ 気象報道に取り組む毅然とした姿勢

本文を最後まで読み終えて思うのは、番組生放送のときにも覗えますが、いわゆる「天然」キャラとコインの裏表にある、非常に謙虚で律義に仕事に取り組まれている姿勢です。番組内だけでなく、檜山さんがその前後に、相当な裏準備のようなものをしてカメラの前に立っているのがわかります。その誠実さあっての、天然ですから。ご本人は、この二文字を、嫌ってらっしゃるようですけれど。

 

⒉ 檜山さんがいろいろサブカル知識を教えてくれる

また、本文中に檜山さんが愛好する作品としていろいろなコンテンツ名が出てきます。ざっと目を通しただけでも、フジファブリック「若者のすべて」、アニメ『3月のライオン』、『天気の子』、『言の葉の庭』、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』、『ARIA』、が目に飛びこんできました。この中のいくつかはわたしも観たり聴いたりしてみました。自分の暗いジャンルの作品を紹介してもらえるのはとてもありがたいことです。

 

⒊ ところでタイトルのブルーモーメントってどういう意味? 

表紙裏に、

「ブルーモーメント」は、夜明け前と夕焼けのあとのわずかな隙に訪れる、辺り一面が青い光に照らされて見える現象です。青は、「若い」とか「未熟」といった意味合いでも用いられることがあります。未熟……まさしく今の私そのものです。こんな私ですが、わずかでもきれいな青い光を――いいえ、私だけの色を放つことができるようになっていけたらいいなと思っています。

とあります。

番組を見ていてわたしの目からは「未熟」とは思いませんが、「初心忘れるべからず」ということなのだと思いました。檜山さんらしい、きっちりと、浮ついていない姿勢です。人は慣れてくるとついつい調子に乗ってしまいます。ブルーモーメントの気持ちを忘れずに、一日一日を送りたいですね。

 

おまけ

わたしはあってもなくてもどっちでもよかったのですが、巻頭と巻末にカラーのグラビア写真が載っています。またモノクロですけれど巻中にも写真が載っています。ご覧になりたい方は手に取ってみてください。

 

 

今読んでいる本がなかなか読み進められず、一昨年読んだ『ブルーモーメント』を紹介してみました。

気温が、少しずつ上がり始めています。三寒四温、着実に、着実に、ですね。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

綺麗事だけ視るか?綺麗事以外も視れるか? モーム『月と六ペンス』から考える

はじめに

W・サマセット・モーム『月と六ペンス』を読み終えました。イギリス文学はディケンズをちょっぴり齧った程度。だいぶ考えさせられました。久々に読みごたえのある内容というかテーマ。スタイルと文体は若干古臭い感じはしますが、それでもエンターテインメントと考えさせること両方をやっているし、皮肉な記述もおそらくのちのレイモンド・チャンドラーが影響を受けたはずです。

なるべくネタバレは避けたいのですが、本書を熱く語ることは必ずそのような行為にぶつかることと同義と思われますので、ストーリーを驚きを持ちつつ追いたい方は読んだのちにこの記事に目を通してみてください。本稿ではあらすじ紹介に重きを置かず登場人物の構図から著者の視点、考えを考察するものにしたいので、話の構造を赤裸々に書くものではありませんしまた話はそれほど複雑なものではないのですが、いちおうご考慮願います。

 

 

本文の構成

小説家の「わたし」の一人称で天才画家・ストリックランド(ゴーギャンがモデルと言われている)の半生を描き憶測する。

頭は舞台がロンドン、真ん中の一番長いパートはパリで、最後の2番目に長いパートはタヒチでの見聞が元。

 

人物紹介

ストリックランド

この小説の最重要人物。イギリス・ロンドンでストリックランド夫人と四十歳まで息子と娘を持ち、株式仲買人として世俗を送っていたが、絵を描くことに取り憑かれて家族を捨て単身パリへ行く。貧困にもめげず画業を続ける。自分の絵を描くこと以外関心がないが、ときおり強い性欲に衝き動かされる。マルセイユからタヒチへ。その自然はストリックランドを魅了し、描くべき対象物を明確にしてくれる。業深い死を迎える。

 

ストリックランド夫人

ストリックランドをまるで猫か何かのように大人しいつまらない男としてしか見ていない妻。「わたし」にパリへストリックランドを訪ねてくれと依頼する。ストリックランド死後、その名声が高まっても、彼の作品を「装飾的」としか眺められない。

 

ストルーヴェ

オランダ出身でパリ在住のイタリア的絵画を描く男。装飾的だが実際は退屈な絵しか描けない。しかし審美眼は豊かで、ストリックランドの才能をいち早く見抜く。愛情豊かで世話好きだが、その結果道化者としていつも誰かに笑われている。

 

ブランチ

ストルーヴェの妻。ストリックランドを異常なほど毛嫌いしているが、あることがきっかけで、彼を愛の虜にしようとする。

 

わたし

この小説を書いているという設定の語り手。ロンドン時代にストリックランド夫人に招かれ家庭生活時代のストリックランドの凡庸さを目にしている。パリへ飛び、ストリックランドを興味深く観察し続ける。大戦後、ストリックランド亡きあとのタヒチへ行き、彼のその地での人となりを聞いて回る。自分の実生活は明かさず、観察・思索者に徹している。ストリックランドを理解しようとし続ける人。

 

アタ

タヒチにおけるストリックランドの妻。子供を二人儲ける。「あの子はおれを放っておいてくれる」「おれに食事を作り、子どもの世話をする。おれのいうこともきく。女に求めるものをみんな与えてくれる」とストリックランドに言わしめる。

 

考察、人物関係を中心として

『月と六ペンス』 サマセット・モーム 人物関係図

 

私の主観で、主要登場人物の6名を上記のような対立軸の中で捉えてみました。

ストリックランドとストルーヴェの対比

『月と六ペンス』を読んでいて、この二人の対比について一番深く考えさせられました。

ストルーヴェは、きっと、みなさんの身の周りにいる、害意のない、お調子者といいますか、おっちょこちょいの、人から笑われてそれでみんなを喜ばせるような、喜劇的人物です。しかし、ストルーヴェを悲劇的にもしている大きな要因は、彼の絵の才能と、他人の作品を評価する才能とが、反比例していることです。これはまた、人に尽くす気持ちと、自分を大切にする気持ちが、反比例していることとセットになっているかもしれません。そのちぐはぐの中を、ちぐはぐに生きていくのが、ストルーヴェの人生だと思われます。

ストリックランドが重い熱病のとき、彼は妻が深刻に嫌がっているにも関わらず、死にかけている人間を救わない選択肢などあるだろうか、と、妻を納得させ、献身的な看病を行います。それを受けるストリックランドは、相変わらずストルーヴェを馬鹿にし続けています。ストルーヴェの絵がひどいことも、隠さない。そんなストリックランドを、ストルーヴェは友人として、才能を知っている者として尽くします。理想に生きる人間です。だからこそ彼の描く絵は薄っぺらいのでしょうか。エゴイスティックなものが創作には必要なのでしょうか。

ストリックランドは、ロンドン時代は猫を被ってといいますか、少なくともとても退屈な男でしたが、絵に目覚めてからは、人が変わったように自分に押しつけられるような美のイメージだけを追求していきます。食事もろくに取らず、稼ぎにもほとんど行かず、そのお金の大部分を画材に費やしているようです。こちらは、人間的理想像などない、といいますか、あっても糞だと思っている口で、自分の性欲すら邪魔なものだと考えています。しかし我慢ならなくなるといくらでもその捌け口を見つけます。リアリストのようでありながら、別のものに関心を奪われています。やはり先ほど言った描くべき絵のことだけです。描いている時間・行為の中だけに、彼の存在はある。それ以外のことは心底どうでもいいようです。だからストリックランドをパリ時代気に入る者はいませんでした。嫌なやつです。そう思われてもいっさい気にしない。というか人のことに興味がない。そういう、本能的なものに忠実すぎるところから、彼の死後評価される作品たちは生まれるのでしょうか。美の奴隷となることでようやく異界から解き放たれる何かがあるのでしょうか。

その二人を観察し、間に入って、両者ともと交流を結ぶのがわたしです。わたしは観察者に徹しています。プライベートはきっとあるのでしょうが、そんな葛藤はいっさい話されない。ストルーヴェの凡庸さと情けないぐらいお人好しなところとプライドのなさにうんざりしながらも、彼を助ける。わたしには世間体を気にする必要性があるからです。最低限の情緒は持っているからです。対してストリックランド相手には、わたしは興味を最大限そそられています。憎むときもだいぶあるけれど、無関心ではいられない。どのような頭の中から彼の態度が生まれてくるのか、創作行為が出てくるのか、会話から引き出そうとしてみたり、人に訊ねてみたりする。そして考察します。ストリックランドの精神構造を。それはタヒチの人々との交流と彼が遺した絵を前にして、結実します。美に憑かれてしまった者の潔さと、困難な闘いとに直面します。理想⇔エゴイズムとはまた別の軸からの途方もない力を見ます。ただただ、わたしは観察者であり考察者です。しかしながら、視点の置き方から見て、わたしはストルーヴェの感性よりもストリックランド寄りの感性の持ち主だと何となく感じさせられます。

わたしは彼ら二人だけでなく、それぞれの妻たちにも観察と洞察の目を向けます。6人に入り切らなかったさまざまな脇役たちにも注意を払います。その目から通して私たちが感じるのは、この世には、実にいろいろな物事に拠って生きる人たちの姿、当たり前ですが、人はこんなにも違うんだという事実です。生き方がまるで違う人間の群れでこの地球は覆い尽くされているという感覚です。ではあなたは何に拠って、何を大事にして生きていますか? と訊ねられている気持ちに私たちをさせてくれます。

 

ストリックランド夫人、ブランチ、アタの3人の女

わたしもストルーヴェも他の男たちもストリックランドに振り回されますが、一番困難な役回りをさせられるのがストリックランドの周りにいる女たちです。ただし、例外があります。それは最初に出てくるストリックランド夫人です。彼女は夫の唐突な別れに当初こそ困惑し涙を流しますが、わたしからストリックランドは女に現を抜かしてパリに行ったのではない、絵を描くためだと教えられると、急に無関心になります。それはストリックランド夫人が夫の持つ男の官能の力を感じ取る能力が皆無だったからではないでしょうか。そしてその背後には、ストリックランド夫人が世間体を取り繕うことばかりに長けていたという才があるのではないでしょうか。

ブランチは初めてストリックランドに会ったときから彼を恐れていました。まだ言語化できない何かを感じていました。しかし夫が連れてきた彼を看病するうち、ストリックランドの野性力、官能に巻きこまれてしまいました。ブランチはもう自分の意志を奪われたようにストリックランドと一緒になるしかありませんでした。彼女は悲劇を迎えます。

対してストリックランドが終の棲家としたタヒチ原住民の女、アタは、ヨーロッパの女二人とはまるで態度を別にして彼に接します。ストリックランドを自由にさせ、ストリックランドが求めるものすべてを与えます。これにはつい女嫌いのストリックランドも負けて、結婚生活を送ります。アタもまた、ストリックランド以外の存在すべてから自由だったのではないでしょうか。ストリックランドが絵を描くこと以外のすべてから自由だったように。つまり、二人は似た者同士です。ここに、タヒチ的生き方⇔ヨーロッパ的生き方を見ることも可能かもしれません。

 

最後に

わたしはこの小説を書いているふりをしながら、いくつかの事実を読者に突きつけてきます。先ほども書きましたように、いろんな信念の人間がいるということと並んで、人間の中のいろんな精神要素――それは、理想、世間体、夢、愛、美、エゴ、官能、得体の知れない超人間的なもの、など――が確実に各人の中に存在するということです。それらがせめぎ合って苦しんでいるのが人間の姿だということです。それを見つめる強さがわたしにはあります。そして辛辣な事実も告げてくれます。人は、ある意味醜くあればあるほど他人に喜ばれるということです。そういうものを喜ぶのが人間の性だということです。醜くとは、自己に忠実であるということです。それが進めば進むほど、他者にはその醜さが際立ち、面白がるのだと。そんな私たちの習性を思い知らせてくれるのが、わたしを創作したモームです。

 

 

今回私は新潮文庫の新訳版を読んだのですが、文体について一つ疑問を持ちました。ある揺らぎがあるというか、文章の視点のぶれのようなものを感じたのですが、それが味にもなり、また欠点にもなっていると。総じて、こういうことを感じるのは魅力的だからこそです。それが訳文によってもたらされているものなのか、モームの文体の特徴なのか、私にはこれ一冊読んだだけではわかりませんでした。『月と六ペンス』の文庫だけでも、他に現在新品で3種類の訳で読めるようです。

 

 

 

月と六ペンス (角川文庫 モ 5-2)

月と六ペンス (角川文庫 モ 5-2)

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これらの中からもう一冊読むか、モームのもう一つの代表作とされている『人間の絆』を読むか、今年中にもう一冊同じ作者の作品に目を通してみたいと思います。

 

 

今この記事を書いている最中、町では積雪が残っています。山間部では、大変なところもあるでしょう。くれぐれもお体にお気をつけください。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

現役作家はどう他人の小説を読むのか 村上春樹『若い読者のための短編小説案内』

吉行淳之介の小説システム図

『若い読者のための短編小説案内』 村上春樹 文春文庫 吉行淳之介「水の畔り」 P62を参考

 

こんにちは。

今日は2024年2月4日、立春ですが、だいぶ冷えこんでいます。

寒は明けたわけですが、今週、雪がちらつくとか何とか。

毎年、この時期に第二弾の寒さの底がやって来ます。

みなさんどうぞご自愛ください。

 

 

本書のあらまし

1997年に単行本が刊行され、2004年に文庫化された村上春樹『若い読者のための短編小説案内』をご紹介したいと思います。

各判型で1度ずつ読んだのですが、これがなかなか面白い。作家って、こんなところに気を配って小説を読んでいるんだ、あるいは、こんなところに気をつけて小説を書いているんじゃないかとか、いろいろ想像できて、奥深い読み物になっています。本書出版のきっかけは在米時代プリンストン大学大学院で日本文学の授業を受け持ったときにした講義(ディスカッション)で、そのスタイルをもとに「第三の新人」を中心とした短編小説をいかに読むか、といった内容の本を出すという計画が文藝春秋内で始まったようです。その雑誌連載をまとめたのが本書。

扱っている作家と作品は、次のような順番です。

  • 吉行淳之介「水の畔り」
  • 小島信夫「馬」
  • 安岡章太郎「ガラスの靴」
  • 庄野潤三「静物」
  • 丸谷才一「樹影譚」
  • 長谷川四郎「阿久正の話」

 

この記事では、冒頭の吉行淳之介「水の畔り」の回を例として、どんな風に村上春樹が人の小説を読んでいるのか、考察しているのか、語っているのかについて、紹介してみたいと思います。

 

吉行淳之介「水の畔り」

作品の背景と執筆時の作家について

まず短く「水の畔り」の発表時期や吉行淳之介作品の中での立ち位置、また彼が結核の手術を前々年に受けその翌年芥川賞を受賞した、などの背景が書き記されます。

 

どんなところが好きなのか

次に一読者村上春樹はこの作品を愛好している理由を語ります。「完成しきっていない」から、とか。

 

あらすじ紹介

読んだことのない人が大半だと思われる作品なので、けっこうな分量で筋の要約がされます。

肺病で千葉の病院に入院している主人公は三十前後の男だが、おそらくハイティーンの少女と交際している。しかし男女の関係があるわけではなく、ゲーム感覚でくっついたり離れたり。彼の中では、関係を深めたい欲と、いやこのまま曖昧な関係でいたいという相反する感情がある。ある日、ラジオからなぜかその少女の声を幻聴として聞いてしまう。その体験は彼を揺さぶり、その気持ちをぶつけようと、彼は東京へ出ていく。だが都会的なスマートさが売りだった彼は妙にぎこちなくなってしまい、少女に怪しまれる。ある偶発的な事件をきっかけに、彼は恋愛に入っていくことを諦め、元の「技巧的な」男に戻る。そして自分の中途半端な状況にけりをつけるために、肺の手術を受けることを決意する。

 

注目ポイントの提示

村上春樹は、この作品の文体がだいぶ乱れているとして、「なぜこの短編は乱れなくてはならなかったか?」と問いを立てます。それをとっかかりにこの作品を読みこんでいこうと。

結論が先に出され、作品内の主人公の技巧性と、まっすぐな気持ちをぶつけたい思いを、村上春樹は吉行淳之介自身がこれから文筆で生計を立てる上で、技巧性で勝負していくのか、それとも本質で勝負するのか、迷っているのと重なっているのではないか、と言います。

 

二つの対立する世界の分類

そのあと、作品世界の物事を2つのファクターに分けてしまいます。

  • 技巧性の世界に属するもの 東京、少女とのゲーム的な恋愛、運河にも見える人工的な糸縒川
  • 非技巧性の世界に属するもの 水郷の小さな町、異性間の情熱的な愛、湖のように巨大な自然のT川

この両陣営の間で主人公は引っ張られ揺れ動いていると村上春樹は言います。作中だけでなく書いている吉行淳之介その人もと。それが逆にうまく書けている、とも。

 

自我と自己と世界の関係を図示する

村上春樹は小説を書く上で嫌でも自我と向き合わねばならないと断言します。そこで登場するのが冒頭の自我と自己と外界の関係を表した円の図です。もう一度貼ります。

外界と自我の間に挟まれて等しい圧力を受けることによって我々の自己は正気を保っている、と村上春樹は唱えます。しかしそれはけして心地よいことではない。吉行淳之介の小説でのこの問題の解決の仕方は、移動による技巧性だ、と彼は考えます。

 

けっこう大胆な発言が多い

以上のような流れで本文は論じられているのですが、私がときどき驚くのは、かなり率直な物言いが見られるという点です。

例えば次のような箇所が出てきます。

でも正直に言って、吉行淳之介がそれほど巧い作家だとは僕は思わないんです。多くの人が吉行さんのことを短編の名手みたいに言うけれど、僕はそんな風に感じたことはあまりないですね。むしろこの人の文章は下手なんじゃないかとさえ思うことがあるんです。

このあとに、そういう不器用なところに吉行淳之介の文章の魅力はあるんじゃないかという論旨に繋がるのですが、それにしても、新人のときにお世話になった当時大御所作家の吉行淳之介相手にこういう口を利けるのを読んで、私としてはなかなか面白かったです。真剣に愛を持ってるからこそ言えるんだろうな、と。作品を評価していること前提の発言なのだと。

 

こんな具合に、図を使ったり、ぶっちゃけトークをしたりして、残りの5人の作家の5作品について「読みどころ」を踏まえつつ語ってくれます。

 

 

人の感想を聞いたり読んだり、人の読み方そのものを知ったりするのって、面白いですよね。

興味を持たれた方は手に取ってみてください。

 

もうすぐS・モーム『月と六ペンス』を読了できそうです。

間に合えば次回紹介してみたいと思います。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

理論物理学者が明かす衝撃の時間論 カルロ・ロヴェッリ『時間は存在しない』

科学的、哲学的、心理学的、宗教的、その他さまざまな観点から時間について語られてきましたが、現代の最新の理論物理学――著者はその中でも量子重力理論を扱い、超ひも理論と並ぶ「ループ量子重力理論」を主導する一人――の見地に立つと、どう見られるのか? そんな知的好奇心に駆られて、本書を取り寄せました。

 

『時間は存在しない』 カルロ・ロヴェッリ NHK出版

 

2017年にイタリア語で書かれた原書が2019年に翻訳されたのですから、現在から5年以上前の「過去」の概念だとある意味捉えられるかもしれません。さまざまなものが日進月歩の時代ですから。しかし、それでもなお私のような自然科学畑にいない人間を刺激する要素はかなりふんだんに盛られています。

理解できたと思われる箇所、理解がなかなか難しかった箇所、両方ありましたが、本稿では前者、理解が進んだ点に焦点を当ててこの本を紹介してみたいと思います。

 

 

⒈時間の速度は変化する

自分のまわりで経過する時間の速度は、自分がどこにいるか、どのような速さで動いているのかによって変わってくる。時間は、質量に近いほうが、そして速く動いたほうが遅くなる。

つまり、低地に暮らす人間と、山などの高所にいる人間とでは、重力のかかり具合が異なり、低地に暮らす人間の方が流れる時間が短く、年の取り方が少なくなる。また、歩き回っている人間とじっとしている人間とでも、同様のことが起こる。時間の流れ方は定まっていない。

 

⒉各固有時を共通に包括する絶対的な時間や「今」という現在も存在しえない

お姉さんが約四光年離れた惑星プロキシマ・ケンタウリbにいるとして、今、お姉さんは何をしていますか? という問いには意味がない。

地球上のその弟がいる時間系とお姉さんがいる時間系とは異なり、それらをすり合わせる行為自体がナンセンス、という意味である。

「現在」という概念が有効になるのは物理学的に自分の身のまわりだけにしか及ばない。

 

⒊物理学の基本方程式では過去と未来についての違い(方向性)は存在しない

熱力学で生じるエントロピーという概念のみが時間の進行性を発生させる。エントロピーは必ず増大する。そしてその上の文脈でのみ時間は過去から未来へと矢のように進む。

エントロピーとは、つまるところ自然現象の全観測が不可能で、粗視化せざるをえないところから現れる概念である。トランプのカードが、最初1~26枚目までが赤で、残りが黒だったとする。シャッフルすればするほど、赤と黒の並びのエントロピーは増す。しかし、マークや、数字に観点を置き換えると、けしてエントロピーは増大しているわけではない。我々の偏った視点により、エントロピーの増大、つまり時間の進行は、発生している。

 

⒋時間も空間も重力場という物理的実体である

ニュートンは時空に絶対値があると考えた。アインシュタインの方程式に従うと時空は重力場という伸び縮みするシートのようになる。量子力学の世界では時空はそのシートがさらに重ね合わさったような世界になる。

 

⒌この世界を記述するには物ではなく出来事によって語った方がよいのではないか

科学の進化全体から見ると、この世界について考える際の最良の語法は、不変性を表す語法ではなく変化を表す語法、「~である」ではなく「~になる」という語法なのだ。

 

⒍ニューロンに刻まれた「記憶」と、脳の働きの「予測」とで、人間は「時間」を作り出している

物理学の世界、方程式上では、tという時間に関する変数は登場しない。しかし、現に生活している我々には、時間という感覚を剥がれて生存することはできない。おそらく、人間の意識、脳の構造によって、認識されるべきものが時間なのだろう。

 

感想

本書は、おおまかには、三部構成で成り立っており、第一部で、日常的に我々が使っている時間の概念を、物理学的見地から、崩壊させ、タイトル通り、「時間なんてないんじゃないか」と思わせる方向へと進んでいきます。

第二部で、最新の研究から、時空はこんな姿、あるいは関係性を持っているんじゃないかとそっと教えてくれます。

第三部で、読者は再び人間・生活視点へと回帰する旅へと導かれます。こういう要素が時間を時間たらしめているんじゃないかと、いろいろ仮説を提案してくれます。

タイトル『時間は存在しない』、著者カルロ・ロヴェッリが理論物理学者ということから、本書が論文か何かではないかと危惧される方もおられるかもしれませんが、実際のところは時間を思索し続ける著者の視点で編まれた科学エッセイです。

理論物理学のみならず、神話や宗教者の解釈や詩や文学、さらには近代哲学や脳科学を援用して、シームレスに「時間」を論じています。

その記述のカテゴリーに呪縛されない柔軟な話運びにより、読者は人間視点の時間→最新物理学での生気を失った時間→ふたたび時間を携えた人間に帰る、といった体験をさせられます。

幅広い話題選びと、ときたま現れる著者ロヴェッリの人間的な感情、そして時間について考え続けてきた彼の執念と研究に費やした時間の重みがこの本を読みごたえのあるものにしていると思います。

また構成も楽しめました。時間についての人間視点を突き崩されて最後にはまた時間を味わうことのできる一人の人間としての読者に戻されるという過程がスリリングでもありました。

著者はたびたびコペルニクス的転換について言及しています。

宇宙が自分のまわりを回っていると思っていたら、自分が宇宙のまわりを回っていた。

そんな認識の逆転体験を我々にさせたがっているいたずらっ子のような著者のキャラクターを読後私はおぼろげに想像しました。合っているのかいないのかはともかく。

もしその通りなら、彼の企みは少なくとも私にとっては成功したのではないでしょうか。

なかなかいい時間認識の旅の時間を味わえました。

 

 

感想のところに書き忘れたのですが、著者のなるべくを肯定したいという意志も感じられてなかなかよかったです。

そういうスタンスで書かれた文章を目にすると、その文章自体も肯定したくなってきます。

それを書いた彼自身の人格も肯定したくなってくるから不思議です。

 

ちょっとの間フィクションでないものを読み続けていたので、次回は小説を手に取ってみたいと思います。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。