もりじゅんの読書ブログ

読んだことない人には面白そうと、読んだことある人にはヒントの1つをと、作品を紹介できたらと思います

現役作家はどう他人の小説を読むのか 村上春樹『若い読者のための短編小説案内』

吉行淳之介の小説システム図

『若い読者のための短編小説案内』 村上春樹 文春文庫 吉行淳之介「水の畔り」 P62を参考

 

こんにちは。

今日は2024年2月4日、立春ですが、だいぶ冷えこんでいます。

寒は明けたわけですが、今週、雪がちらつくとか何とか。

毎年、この時期に第二弾の寒さの底がやって来ます。

みなさんどうぞご自愛ください。

 

 

本書のあらまし

1997年に単行本が刊行され、2004年に文庫化された村上春樹『若い読者のための短編小説案内』をご紹介したいと思います。

各判型で1度ずつ読んだのですが、これがなかなか面白い。作家って、こんなところに気を配って小説を読んでいるんだ、あるいは、こんなところに気をつけて小説を書いているんじゃないかとか、いろいろ想像できて、奥深い読み物になっています。本書出版のきっかけは在米時代プリンストン大学大学院で日本文学の授業を受け持ったときにした講義(ディスカッション)で、そのスタイルをもとに「第三の新人」を中心とした短編小説をいかに読むか、といった内容の本を出すという計画が文藝春秋内で始まったようです。その雑誌連載をまとめたのが本書。

扱っている作家と作品は、次のような順番です。

  • 吉行淳之介「水の畔り」
  • 小島信夫「馬」
  • 安岡章太郎「ガラスの靴」
  • 庄野潤三「静物」
  • 丸谷才一「樹影譚」
  • 長谷川四郎「阿久正の話」

 

この記事では、冒頭の吉行淳之介「水の畔り」の回を例として、どんな風に村上春樹が人の小説を読んでいるのか、考察しているのか、語っているのかについて、紹介してみたいと思います。

 

吉行淳之介「水の畔り」

作品の背景と執筆時の作家について

まず短く「水の畔り」の発表時期や吉行淳之介作品の中での立ち位置、また彼が結核の手術を前々年に受けその翌年芥川賞を受賞した、などの背景が書き記されます。

 

どんなところが好きなのか

次に一読者村上春樹はこの作品を愛好している理由を語ります。「完成しきっていない」から、とか。

 

あらすじ紹介

読んだことのない人が大半だと思われる作品なので、けっこうな分量で筋の要約がされます。

肺病で千葉の病院に入院している主人公は三十前後の男だが、おそらくハイティーンの少女と交際している。しかし男女の関係があるわけではなく、ゲーム感覚でくっついたり離れたり。彼の中では、関係を深めたい欲と、いやこのまま曖昧な関係でいたいという相反する感情がある。ある日、ラジオからなぜかその少女の声を幻聴として聞いてしまう。その体験は彼を揺さぶり、その気持ちをぶつけようと、彼は東京へ出ていく。だが都会的なスマートさが売りだった彼は妙にぎこちなくなってしまい、少女に怪しまれる。ある偶発的な事件をきっかけに、彼は恋愛に入っていくことを諦め、元の「技巧的な」男に戻る。そして自分の中途半端な状況にけりをつけるために、肺の手術を受けることを決意する。

 

注目ポイントの提示

村上春樹は、この作品の文体がだいぶ乱れているとして、「なぜこの短編は乱れなくてはならなかったか?」と問いを立てます。それをとっかかりにこの作品を読みこんでいこうと。

結論が先に出され、作品内の主人公の技巧性と、まっすぐな気持ちをぶつけたい思いを、村上春樹は吉行淳之介自身がこれから文筆で生計を立てる上で、技巧性で勝負していくのか、それとも本質で勝負するのか、迷っているのと重なっているのではないか、と言います。

 

二つの対立する世界の分類

そのあと、作品世界の物事を2つのファクターに分けてしまいます。

  • 技巧性の世界に属するもの 東京、少女とのゲーム的な恋愛、運河にも見える人工的な糸縒川
  • 非技巧性の世界に属するもの 水郷の小さな町、異性間の情熱的な愛、湖のように巨大な自然のT川

この両陣営の間で主人公は引っ張られ揺れ動いていると村上春樹は言います。作中だけでなく書いている吉行淳之介その人もと。それが逆にうまく書けている、とも。

 

自我と自己と世界の関係を図示する

村上春樹は小説を書く上で嫌でも自我と向き合わねばならないと断言します。そこで登場するのが冒頭の自我と自己と外界の関係を表した円の図です。もう一度貼ります。

外界と自我の間に挟まれて等しい圧力を受けることによって我々の自己は正気を保っている、と村上春樹は唱えます。しかしそれはけして心地よいことではない。吉行淳之介の小説でのこの問題の解決の仕方は、移動による技巧性だ、と彼は考えます。

 

けっこう大胆な発言が多い

以上のような流れで本文は論じられているのですが、私がときどき驚くのは、かなり率直な物言いが見られるという点です。

例えば次のような箇所が出てきます。

でも正直に言って、吉行淳之介がそれほど巧い作家だとは僕は思わないんです。多くの人が吉行さんのことを短編の名手みたいに言うけれど、僕はそんな風に感じたことはあまりないですね。むしろこの人の文章は下手なんじゃないかとさえ思うことがあるんです。

このあとに、そういう不器用なところに吉行淳之介の文章の魅力はあるんじゃないかという論旨に繋がるのですが、それにしても、新人のときにお世話になった当時大御所作家の吉行淳之介相手にこういう口を利けるのを読んで、私としてはなかなか面白かったです。真剣に愛を持ってるからこそ言えるんだろうな、と。作品を評価していること前提の発言なのだと。

 

こんな具合に、図を使ったり、ぶっちゃけトークをしたりして、残りの5人の作家の5作品について「読みどころ」を踏まえつつ語ってくれます。

 

 

人の感想を聞いたり読んだり、人の読み方そのものを知ったりするのって、面白いですよね。

興味を持たれた方は手に取ってみてください。

 

もうすぐS・モーム『月と六ペンス』を読了できそうです。

間に合えば次回紹介してみたいと思います。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

理論物理学者が明かす衝撃の時間論 カルロ・ロヴェッリ『時間は存在しない』

科学的、哲学的、心理学的、宗教的、その他さまざまな観点から時間について語られてきましたが、現代の最新の理論物理学――著者はその中でも量子重力理論を扱い、超ひも理論と並ぶ「ループ量子重力理論」を主導する一人――の見地に立つと、どう見られるのか? そんな知的好奇心に駆られて、本書を取り寄せました。

 

『時間は存在しない』 カルロ・ロヴェッリ NHK出版

 

2017年にイタリア語で書かれた原書が2019年に翻訳されたのですから、現在から5年以上前の「過去」の概念だとある意味捉えられるかもしれません。さまざまなものが日進月歩の時代ですから。しかし、それでもなお私のような自然科学畑にいない人間を刺激する要素はかなりふんだんに盛られています。

理解できたと思われる箇所、理解がなかなか難しかった箇所、両方ありましたが、本稿では前者、理解が進んだ点に焦点を当ててこの本を紹介してみたいと思います。

 

 

⒈時間の速度は変化する

自分のまわりで経過する時間の速度は、自分がどこにいるか、どのような速さで動いているのかによって変わってくる。時間は、質量に近いほうが、そして速く動いたほうが遅くなる。

つまり、低地に暮らす人間と、山などの高所にいる人間とでは、重力のかかり具合が異なり、低地に暮らす人間の方が流れる時間が短く、年の取り方が少なくなる。また、歩き回っている人間とじっとしている人間とでも、同様のことが起こる。時間の流れ方は定まっていない。

 

⒉各固有時を共通に包括する絶対的な時間や「今」という現在も存在しえない

お姉さんが約四光年離れた惑星プロキシマ・ケンタウリbにいるとして、今、お姉さんは何をしていますか? という問いには意味がない。

地球上のその弟がいる時間系とお姉さんがいる時間系とは異なり、それらをすり合わせる行為自体がナンセンス、という意味である。

「現在」という概念が有効になるのは物理学的に自分の身のまわりだけにしか及ばない。

 

⒊物理学の基本方程式では過去と未来についての違い(方向性)は存在しない

熱力学で生じるエントロピーという概念のみが時間の進行性を発生させる。エントロピーは必ず増大する。そしてその上の文脈でのみ時間は過去から未来へと矢のように進む。

エントロピーとは、つまるところ自然現象の全観測が不可能で、粗視化せざるをえないところから現れる概念である。トランプのカードが、最初1~26枚目までが赤で、残りが黒だったとする。シャッフルすればするほど、赤と黒の並びのエントロピーは増す。しかし、マークや、数字に観点を置き換えると、けしてエントロピーは増大しているわけではない。我々の偏った視点により、エントロピーの増大、つまり時間の進行は、発生している。

 

⒋時間も空間も重力場という物理的実体である

ニュートンは時空に絶対値があると考えた。アインシュタインの方程式に従うと時空は重力場という伸び縮みするシートのようになる。量子力学の世界では時空はそのシートがさらに重ね合わさったような世界になる。

 

⒌この世界を記述するには物ではなく出来事によって語った方がよいのではないか

科学の進化全体から見ると、この世界について考える際の最良の語法は、不変性を表す語法ではなく変化を表す語法、「~である」ではなく「~になる」という語法なのだ。

 

⒍ニューロンに刻まれた「記憶」と、脳の働きの「予測」とで、人間は「時間」を作り出している

物理学の世界、方程式上では、tという時間に関する変数は登場しない。しかし、現に生活している我々には、時間という感覚を剥がれて生存することはできない。おそらく、人間の意識、脳の構造によって、認識されるべきものが時間なのだろう。

 

感想

本書は、おおまかには、三部構成で成り立っており、第一部で、日常的に我々が使っている時間の概念を、物理学的見地から、崩壊させ、タイトル通り、「時間なんてないんじゃないか」と思わせる方向へと進んでいきます。

第二部で、最新の研究から、時空はこんな姿、あるいは関係性を持っているんじゃないかとそっと教えてくれます。

第三部で、読者は再び人間・生活視点へと回帰する旅へと導かれます。こういう要素が時間を時間たらしめているんじゃないかと、いろいろ仮説を提案してくれます。

タイトル『時間は存在しない』、著者カルロ・ロヴェッリが理論物理学者ということから、本書が論文か何かではないかと危惧される方もおられるかもしれませんが、実際のところは時間を思索し続ける著者の視点で編まれた科学エッセイです。

理論物理学のみならず、神話や宗教者の解釈や詩や文学、さらには近代哲学や脳科学を援用して、シームレスに「時間」を論じています。

その記述のカテゴリーに呪縛されない柔軟な話運びにより、読者は人間視点の時間→最新物理学での生気を失った時間→ふたたび時間を携えた人間に帰る、といった体験をさせられます。

幅広い話題選びと、ときたま現れる著者ロヴェッリの人間的な感情、そして時間について考え続けてきた彼の執念と研究に費やした時間の重みがこの本を読みごたえのあるものにしていると思います。

また構成も楽しめました。時間についての人間視点を突き崩されて最後にはまた時間を味わうことのできる一人の人間としての読者に戻されるという過程がスリリングでもありました。

著者はたびたびコペルニクス的転換について言及しています。

宇宙が自分のまわりを回っていると思っていたら、自分が宇宙のまわりを回っていた。

そんな認識の逆転体験を我々にさせたがっているいたずらっ子のような著者のキャラクターを読後私はおぼろげに想像しました。合っているのかいないのかはともかく。

もしその通りなら、彼の企みは少なくとも私にとっては成功したのではないでしょうか。

なかなかいい時間認識の旅の時間を味わえました。

 

 

感想のところに書き忘れたのですが、著者のなるべくを肯定したいという意志も感じられてなかなかよかったです。

そういうスタンスで書かれた文章を目にすると、その文章自体も肯定したくなってきます。

それを書いた彼自身の人格も肯定したくなってくるから不思議です。

 

ちょっとの間フィクションでないものを読み続けていたので、次回は小説を手に取ってみたいと思います。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

儒教と並ぶ中国思想・道教の原典 『老子』

気になった箇所

 

 上善は水の若(ごと)し。水は善く万物を利して争わず、衆人の悪(にく)む所に処(お)る、故に道に幾(ちか)し。

 居は地を善しとし、心は淵を善しとし、与(まじわ)るは仁を善しとし、言は信を善しとし、正は治を善しとし、事は能を善しとし、動は時を善しとす。

 夫(そ)れ唯(た)だ争わず、故に尤(とが)無し。(訓読文)

 

 最上の善なるあり方は水のようなものだ。水は、あらゆる物に恵みを与えながら、争うことがなく、誰もがみな厭だと思う低いところに落ち着く。だから道に近いのだ。

 身の置きどころは低いところがよく、心の持ち方は静かで深いのがよく、人とのつき合い方は思いやりを持つのがよく、言葉は信(まこと)であるのがよく、政治はよく治まるのがよく、ものごとは成りゆきに任せるのがよく、行動は時宜にかなっているのがよい。

 そもそも争わないから、だから尤(とが)められることもない。(訳文)

(第八章)

 

ギリシャ・ローマ神話や、古事記・日本書紀、源氏物語や今昔物語などのクラシックなコンテンツをたまに読みたくなることありませんか?

私もどうやらその時期に入ったようで、そういうものが揃ってそうな岩波文庫の『老子』を購読してみました。

 

『老子』 蜂屋邦夫訳注 岩波文庫

 

『老子』を選んだのは、いわゆる老荘思想に興味があり、また、共感できるものを感じていたからです。

訳文だけを読めば、さらっと読み終えられてしまいます。

今日は本書について語ってみたいと思います。

 

 

岩波文庫版『老子』の構成

  目次

 凡例

老子(第一章―第八十一章)

 解説

 索引

 あとがき

 

本文「老子」は、各章訳文、訓読文、原文、注の順に分割されて配置されています。

私としては、訳文を読んで注目すべきと思った章だけ訓読文などを追ってみました。

 

『老子』の思想とは何か

『老子』は「道」篇と「徳」篇に分かれているらしく、合わせて「道徳」と言います。

「道」は《柔弱に活動して根元へと回帰していく》とされます。

「徳」は「道」を活かして生活や政治に振る舞うべき姿のことを言っているような気がします。

 

これでは何のことかさっぱりわかりませんので、一番「道」を表しているであろう第二十一章から訳文をまるまる引用してみたいと思います。

 

 大いなる徳を持つ人のありさまは、道にこそ従っているのだ。

 道というものは、おぼろげでなんとも奥深い。おぼろげでなんとも奥深いが、その中になにか形象がある。おぼろげでなんとも奥深いが、その中になにか実体がある。奥深くてうす暗いが、その中になにか純粋な気がある。その純粋な気はまことに充実していて、その中に確かな働きがある。

 現今から古にさかのぼっても、そのように名づけられたもの、つまり道はずっと存在しつづけており、(道の活動の中に)あらゆるものの始まりが見てとれる。わたしは何によってあらゆるものの始まりがこのようだと分かるのかというと、このこと――道がずっと存在しつづけ、玄妙な生成の活動を行っていることによってなのだ。

 

同じく「徳」を言い表していそうな第六十三章から引きます。

 

 なにも為さないということを為し、なにも事がないということを事とし、なにも味がないということを味とする。

 小さいものを大きいものとして扱い、少ないものを多いものとして扱う。怨みには徳でもって報いる。難しいことは、それが易しいうちに手がけ、大きいことは、それが小さいうちに処理する。世の中の難しい物事はかならず易しいことからおこり、世の中の大きな物事はかならず些細なことからおこるのだ。そういうわけで聖人は、いつも大きな物事は行なわない。だから大きな物事が成しとげられるのだ。

(後略)

 

また、『老子』は同時代、あるいは先代にすでに存在していた儒教を大いに批判します。

《学を絶たば憂い無し》有名な文句ですね。「学」は学問の他、礼儀作法や徳育なども含まれ、孔子一派へのカウンターのようなものを感じてしまいます。

 

老子という人物

そんな『老子』を書いたとされる老子はどんな人物なのでしょう。

実在しない説などもあったようですが、一人か複数人かは別としても、実在はしているようです。

前漢の歴史書『史記』では、三人の候補者が書かれているみたいです。

一番有力なのが、「老耼」。姓は李、名は耳、字は耼。老子とは号のようです。楚の国の人で、周の公文書を保管する部署の役人をしていましたが、辞任し旅に出、関所を通りかかったとき、尹喜という人物に請われ、書物を著す。これが『老子』。正式名称は、『老子道徳経』と言うらしいです。

 

感想

無為自然という言葉がありますが、のんびりと自分を急かさない気持ちになれました。

 

 

繰り返しになりますが、訳文オンリーで目を通すなら、さらっと半日で読み終えられます。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

娯楽小説家としての司馬遼太郎 『燃えよ剣』

「―――」

 七里は、気合で、誘った。

 歳三は動かず。

 七里は踏みこんだ。

 とびあがった。

 上段から、電光のように歳三の左籠手にむかって撃ちおろした。

 が、その前、一瞬。

 歳三はツカをにぎる両拳を近よせ、刀をキラリと左斜めに返し、同時に体を右にひらいた。むろん、眼にもとまらぬ迅さである。

 戞っ

 と火花が散ったのは、和泉守兼定の裏鎬で落下した七里の太刀に応じたのだ。七里の太刀がはねあがった。体が、くずれた。

 

十年ぶりぐらいに『燃えよ剣』を読みました。

それまでは新潮文庫版(上下巻)の改版が出るたびに買い直していたのですが、2020年に文藝春秋から新書判で一巻本が出たとのことで、購入し、四度目の司馬遼太郎が描く土方歳三の男の旅路の世界に浸ってみました。

高校生のとき、二十代、三十代のときと、だいぶ違って読めました!

これまでは、どうしても「歴史小説家の司馬遼太郎」「司馬史観の持ち主」というフィルターを通して読んでいたのだけれど、「めっちゃエンターテインメント小説やん」「読者サービスがすごい」と、『燃えよ剣』を書いてるときの司馬遼太郎の違った顔が感じられて、なかなか楽しめました。

 

 

まず剣劇シーンが楽しめる

冒頭に引用したくだりは、主人公・土方歳三がまだ武州・南多摩の豪農のせがれで「バラガキ」(不良少年、ほどの意味)と呼ばれていた時代からの因縁の田舎浪人剣士、七里研之助(おそらく創作のライバルでしょう)と、歳三たちが上洛して新選組を結成し池田屋事件・蛤御門の変も終わった頃に、歳三が二条中洲で決闘する場面のものです。

この小説開始して早々から、剣戟の描写のシーンは多々出てきます。

それらは迫真の肉体感溢れる筆太の描かれ方をしているものの、高校生のときから、「これは、わざとテレビや映画のチャンバラを意識してやってるな」と感じたものですが、今回、四十代になって読んでみて、「ああ、読者を楽しませるためなら、何でもやっていたんだろうな、この頃の司馬遼太郎は」と、妙に感心してしまって、そういう司馬遼太郎の「芸」を素直に読めて、面白かったです。

剣術、剣道を司馬遼太郎がやっていようといまいと、読む者が未体験であろうと、楽しめる。

そんな工夫があちこちに鏤められていて、仮名遣いや漢字の書き分け、文の切り方、改行の仕方、視点の変え方で、真剣勝負の場の切迫した空気感が伝わるようになっていて、こちらも真剣に読んでしまう。

司馬遼太郎が当時原稿用紙の上に施した技を見抜こうと、こちらもついついムキになって読んでしまう。

純粋に、見事だな、と心の中で笑顔で読めました。

 

エンタメ作家としての司馬遼太郎

思うのですけれど、司馬遼太郎の著作物は、かなり多岐に渡っています。それぞれの作品ごとに、違った顔を見せる。

小説、エッセイ、対談。

そのジャンルごとにまず異なる。

そして歴史小説の中でも、『坂の上の雲』のような叙事詩としての作品もあれば、『竜馬がゆく』この『燃えよ剣』『尻啖え孫市』のような娯楽に重きを置いたものもある。

『世に棲む日日』のような文学性寄りの作品もあれば、『翔ぶが如く』のような、出だしの三、四巻だけ小説で、あとは伝記になってしまったちょっとへんてこりんな作品もある。

ちょっと掴みにくい作家ですね。それだけの作品量と幅がある書き手ということでしょうか。

さすが戦後の国民作家だけのことはあります。

平成後半ぐらいから、最新の歴史研究が次々と現れ、司馬遼太郎の時代とはまた違う歴史認識の上に我々は立ち、「司馬遼太郎はホラ吹きだ」「司馬史観否定」という風潮になっているのかもしれませんが、彼の何といっても一番の顔は、読者が楽しめるなら何でもやるという「エンターテインメント作家」の顔ではないでしょうか。

小説内の歴史記述の真偽に一喜一憂せず、彼が企んだ架空の物語世界に、彼が情熱をこめた架空の歴史人物の一人一人に、焦点を合わせて読むのが、私のお薦めの司馬遼太郎の読み方です。

 

『燃えよ剣』の土方歳三という男の型

ではこの小説で提供される土方歳三像の魅力とは何でしょう。

つまりこの小説の楽しめるポイントとは何でしょう。

歳三は、幕末の混沌とした世の中に――それは日本始まって以来の思想戦の時代であると思います――思想・信条を持ちこまず、喧嘩・暗殺・戦争といった、戦闘行為そのものに自分の価値を見出だします。新選組という組織を強化することだけに夢中になります。武士出身でないのに武士であろうと必死になります。節義だけを大切にします。

その理念でなく「機能」そのものに、自ら「道具」であろうと身を処す潔い男の生き方に、私たちは見事さを感じるのではないでしょうか。

歳三は結核で臥せる弟分の沖田総司の枕頭で刀を抜き放ち、見せます。

「刀とは、工匠が、人を斬る目的のためにのみ作ったものだ。刀の性分、目的というのは、単純明快なものだ。兵書とおなじく、敵を破る、という思想だけのものである」

「はあ」

「しかし見ろ、この単純の美しさを。刀は、刀は美人よりもうつくしい。美人は見ていても心はひきしまらぬが、刀のうつくしさは、粛然として男子の鉄腸をひきしめる。目的は単純であるべきである。思想は単純であるべきである。新選組は節義にのみ生きるべきである」

もちろんこの歳三の「思想」が素晴らしい、現代人もそうあるべきだなどとつまらぬことを言うつもりはありません。

闘争のためだけに生まれてきたような男の美学、泥臭くとも勝ち抜く闘志、そのためにはいかなる面倒な思案や研究も厭わない頭脳。

そういう、土方歳三に詰まった天賦の才能と生き様とシンプルな自己規定の仕方に、あっぱれなものを感じてしまいます。

 

登場する女性や恋が魅力的

また、「この小説を書いているとき、司馬遼太郎は恋をしていたんじゃないか」と穿たれるほど、『燃えよ剣』には数多の女性と彼女たちとの歳三の関係が出てきます。

いろんなパターンの肉体関係、惹かれ合い方が出てきます。

これをいちいち楽しめる。

最も主要なヒロインは、お雪です。彼女と歳三の関係がなかなかよい。

お雪もフィクションなのでしょうが、最終的に「鬼の歳三」が落ちる場面を読むのもこの小説の醍醐味です。

 

半藤一利さんの「八十年周期説」

最後に、やはり幕末を舞台としている以上、混乱期に、いろいろな歴史人物や歴史事件が語られます。読者は、現代で同じような立場に立ったら、自分はどういう姿勢を取るかなど、考えることも可能です。

半藤一利『昭和史』『幕末史』に、「八十年周期説」のような、時代の変わり目の周期が語られます。前半の四十年で、新しく起こったシステムは繫栄し、後半の四十年で、そのシステムは崩壊していくという説です。

 

 

 

半藤さんは、1865年安政五カ国条約の勅許で日本の開国が公式認定され、この年が日本近代化のスタートの年だと考えます。

40年後の1905年日露戦争勝利でその流れはピークを迎えます。

さらにまた40年後の1945年第二次世界大戦敗戦で大日本帝国は崩壊します。と同時に民主主義・経済大国日本はスタートします。

40年後の1985年プラザ合意・円高で経済の発展はピークを迎えます。

さらにまた40年後の2025年……来年ですね、どうなるのでしょう。1985年当時より日本は経済において国際競争力が右肩下がりのような気もします。

そんな幕末の160年後、敗戦の80年後を控える現代を、土方歳三が活躍した当時と比べて考えてみるのも一つの意味があるかもしれません。

現代は第三の幕末であると仮定して、いかに生きるか。本書『燃えよ剣』を読みながら、そんなことを考えさせられました。

 

『燃えよ剣』は2種類の書籍で読める

最初に書きましたように、新潮文庫版(上下二冊)と、新たに刊行された文藝春秋新書サイズ版(一冊)と、現在2種類の紙の本で手に取ることができます。

 

『燃えよ剣』 司馬遼太郎 文藝春秋

 

一つだけ気をつけていただきたいのは、文春版はレイアウトが段組(二段組)になっていることです。

 

段組

段組が気にならない方なら、どちらのバージョンでもかまわないと思います。

厚さはどちらも同じようなものでしょう。

一気に読みたいのなら、文春版の方が勢いがつきそうな気もします。

丁寧に読みたい人なら、新潮文庫版がよいような気もします。

 

 

 

興味を持たれた方はぜひ目を通してみてください。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

やまとことばと漢文の系譜 なぜ国民教材であり続けるのか 中島敦「山月記」を考える

私は中学までは主に歴史小説を読んでいたのですが、高校に上がって、いわゆる純文学小説を読むようになりました。

それは、教科書に載っていた中島敦「山月記」や太宰治「富嶽百景」に触れたからというのもあります。

それ以降は書店で自ら本を選び自分の知らなかった世界や自分の持っていない感性を新鮮に読むようになりました。

並行して歴史物も読んではいましたが。

 

そんな一種の原初の読書体験を思い出しているうち、「山月記」を教科書掲載文も合わせて四回目ほどの再読をしてみたくなりました。

文庫本ですと12ページほどの長さです。

約二十年ぶりに、どう読めたか、感じたか、考えたことなどを記してみたいと思います。

 

 

中島敦の略歴

1909年(明治四十二年)東京で生まれる。父は漢文教師、その父も漢学者。東京帝国大学国文科卒業。横浜高等女学校教諭となり国語と英語を教える。並行して創作活動並びに発表を行う。この頃から喘息が激しくなる。1941年(昭和十六年)国語編集書記として南洋庁内務部地方課勤務となり、パラオ島に赴く。翌1942年(昭和十七年)「山月記」「弟子」「李陵」「名人伝」を発表・執筆、実生活では三月に帰京、十一月喘息が悪化し、入院。十二月四日、死去。三十三歳。1948年(昭和二十三年)『中島敦全集』刊行。(新潮文庫『李陵・山月記』年譜より要約)

 

「山月記」のネタバレを回避したあらすじ

才豊かな李徴は若くして試験に合格し官僚となるが、《臆病な自尊心と、尊大な羞恥心》の持ち主で、役職に不満を抱き退官する。誰とも交わらず詩作に打ちこみ、詩人としての名を百年のちに残そうとするが、生活は苦しく痩せ細ってゆく。己の詩才に絶望した李徴は一地方官吏として再就職するが、かつて鈍物として見下していた同輩たちの手足となることは彼の自尊心を傷つける。出張に出たある日、李徴は発狂する。李徴の旧友、監察官となっていた袁傪が旅回り中、ここでは人喰い虎が出る、と忠告される。果たして袁傪は猛虎と出会うが、それは李徴のなれの果てで、李徴の心を持った虎と袁傪は対話する……。

 

「山月記」を考察する

本作はネタバレを危惧する必要のないほど古典的有名作ではあります。

しかしながら読書のダイナミズムは一文一文を自分の意志で読み、体験することによって生じるものだと考えますので、あえて主要なパートについての説明は省きました。

今回読んでみて、思ったことを2点に分けて書いてみたいと思います。

 

なぜ教科書に載り続けるのか

改めて思ったのは、解釈のしようがいくらでもありうる作品だということです。

虎、人間、月、山、それらの語のメタファーから、一文一文の意図について、あえて、「こういう読み方しかない」というような厳密性を持たせず、空に星々を無作為に鏤めたように、ある意味ほったらかしに記述、及び配置されているということです。

ですから、一つの文を通り過ぎるとき、頭の中で例えば3パターンぐらいの可能性を浮かばせられて、そしてまた、次なるキーの文で同じような複数の可能性の中から選び取らされます。

その可能性のかけ算の中から、読者は、各自で李徴が虎になった理由を考えさせられ、その上で人間の心の仕組みや、他者とのあり方について洞察を深めさせられます。

そういう、簡単に「これはこういうことだ」と決めつけるのが難しい物語の書かれ方が、学生期の子供たちの脳にいい負荷を与え、「読み解く」という行為を鍛えるのではないでしょうか。

私自身、四十後半ですが、自分なりに与えた解釈を中島敦に合っているかどうか問いかけても、突き放されているような感覚を覚えました。

深読みするなら、「答えなどというものは存在しない」ということを教えてくれているかのようでした。

 

また、国語教育の中で現場としてどうこの作品が扱われているのかも気になりました。

私自身が受けた授業のスタイルは今ではもう思い出せませんが、このような定点を置くことが難しい小説を、どのように高校生たちに教材として使ってどこまで教員の主観を入れるのか、どこまで生徒たちの主観に委ねるのか、そのような「距離感」が難しいであろうなと。

ですから、この小説を問題文として設問をいくつか配置し、その答えを採点するとき、最大公約数としての正解を用意することは可能かもしれませんが、どこからが誤った解答であると指摘するのは割り切らねばならない、あるいはある意味暴力的な決断をせねばならないのではないかと考えてしまいました。

 

「やまとことば」と漢文 かつてあった日本文語の2つの系譜

私自身がこの「山月記」並びに中島敦の作品を好むのは、彼の書く文章が漢文をベースにしたものであるからかもしれません。

私は思うのですけれど、戦前までは、日本の文章には、2種類の系譜があったように思います。

一つは和歌・俳句、源氏物語や説話集などに見られる、日本独自の言葉遣い、あえて言うなら、「やまとことば」を用いられて書かれた文章。

もう一つは、中国伝来の漢文の文法・形式を用いて、筆記された文章。これは記紀(古事記・日本書紀)や武家の時代の文書などで使われてきました。

明治以降の小説家で言えば、夏目漱石はどちらかというとやまとことば、森鴎外は漢文調、夏目漱石の弟子筋である芥川龍之介は森鴎外側の漢文派、谷崎潤一郎・川端康成はどうなのでしょう、保留で、太宰治はどちらかというとやまとことば、三島由紀夫になると海外文学の流れもだいぶ入ってきて何とも言えませんね……、と、二派に分類することも可能になると思います。

この流れは、戦後は、それぞれ柔らかな文体と、「硬質な文体」と表されているのかもしれません。

現代は、それら両方がちょうどよく合わさった文章が主流のような気がしますね。

みなさんが好む文章はやまとことばに近いのか、漢文に近いのか、どちらでしょう。

 

近代文学史の中で、中島敦は、漢文派の文章で珠玉の短編を遺した数少ない作家です。

硬質で、難解に一見見えるかもしれませんが、その表皮の下には、論理性と、気品ある韻律が潜んでいます。

ここまで漢文体のよさを持って近代文学を作り上げた作家を他には私はちょっと知りません。

それは、中島敦オリジナルの文体となって、現代でも残り続けています。

映画で言えば、他に替えの利かない映像文体を武器にして作品を撮った過去の名匠たちのような風格があります。

 

 

今日は学校における国語教育について、いささか考えさせられました。

学生、つまり相手に何を求めるか。

これは教師と生徒の関係だけでなく、私たち一般人の間でのコミュニケーション論にも結びついてきます。

こういうことに思案を巡らせられるのも、読書の一つのよきところですね。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

トルストイ『人生論』 ゆるい要約と個人的な感想

2024年1月20日、今日は日本の暦では大寒です。

文字通り最も寒い季節とされます。

寒の期間(小寒~立春)のちょうど中日であり、そう考えると、これから寒が退いていくとも考えられます。

みなさん、どうぞご自愛ください。

私も自愛します。

 

具体的にどう自愛しようと考えていたのですが、まず、熱い風呂に入る。

その前に、読み終わった本を自愛しつつ緩く語ろう。

そう、この記事です。

手を抜くわけではないけれど、力まずに、適度に、書く。

そう思います。

 

『人生論』 トルストイ 新潮文庫

 

実はこの書籍は、昨年十一月ほどから読み始めていました。

しかし、一言で言うなら、読みにくい。

理由は、文章も、語り口(伝え方)も、回りくどい。

現代人の文章の書き方なら、同じことを訴えるのでも、文庫本で30ページほどで終わりそうなものを、256ページかけている(トルストイファンの方には、申し訳ない気分です)。

最初の3分の1ほどは、耐えつつ読んでいたのですが、はてなブログを書いてらっしゃる方が「中年になれば、つまらない本は我慢して読まなくてけっこう」という意味のことを書かれていて、「それは一理ある」と思った私は、必殺「流し読み」に切り替えたのでした。

そしてようやく本日読了。

なので、できるだけ要点を逃さないよう、「流し書き」で綴ってみたいと思います。

 

 

トルストイの略歴

1828年地主貴族の息子として生まれる。

69年『戦争と平和』、77年『アンナ・カレーニナ』、99年『復活』などを発表。

1910年82歳で死去。

「トルストイ運動」を起こした。

 

『人生論』の背景

1870年代の「回心」をへて、「トルストイ運動」開始のあと、86年暮れ~87年8月に執筆された論文。

86年、トルストイが農作業中怪我をして、高熱を出し、その見舞いの手紙に「もし万人にとって必要なトルストイのような人間まで死なねばならぬとしたら、死はいったい何のためにあるのか? それを考えると、理性と感情をどうやって調和させてよいのか、わからなくなる」との質問への返信が草稿。

翌87年のモスクワ心理学会の研究報告と討論に参加したトルストイは、前の手紙に加筆し『生命についての概念』という題で講演。これが第二稿。

88年最終校正が完成したが、出版は検閲により禁止。「正教の教義に対する不信を植えつけ、祖国愛を否定している」というのがその理由。

地下出版、国外での翻訳をへて、89年ロシアでも雑誌に部分発表。

 

要約と感想

そもそもなぜ私が読もうかと思ったかというと、

 


www.youtube.com

 

という動画を観て、南アフリカで活動していた時代の無抵抗主義に目覚める前のガンジーがトルストイと文通していて、その感化を受けたガンジーがインドに帰り独立運動を成功させた、という知らなかった歴史事実と、テーマについて面白そうだと感じたからです。

 

では、テーマとは何か。

それはのちに譲るとして、本書は、19世紀の「スピリチュアル本」だと思いました。

けっこうスピってる。

 

要約

「理性的な意識」と「動物的個我」がある。後者に従って生きていきがちだが、後者は前者に従属されるべきものだ。「理性的な意識」によって生きると、死の恐怖に影響を受けることなく真の生命に生きられる。真の生命の行為とは愛である。

 

思ったことをつれづれに

理性的な意識と動物的個我。

まずこの言葉が著者にとってどういう意味合いであるのかを探るのに時間がかかりました。

出だしの1/3ぐらいが定義を明確にされないままそれらについて語られます。

今風に言えば、「理性的な意識」が自己、「動物的個我」が自我。

長ったらしく「動物的個我」にまつわるいろんな事象についての否定が行われます。

三十五章のうち、第十七章から「霊による誕生。」という題でようやくポジティブな記述が始まります。

第十八章「理性的な意識は何を要求するか。」、第二十二章「愛の感情は、理性的な意識に従う個我の活動のあらわれである。」、第二十四章「真の愛は個我の幸福を否定した結果である。」、第二十五章「愛は真の生命の唯一の完全な活動である。」、第三十三章「目に見える生命は、生命の無限の運動の一部分である。」、第三十五章「肉体の苦痛は、人々の生命の幸福のための必要条件である。」、と続きます。

「結び」では、「人間の生命は幸福への志向である。人間の志向するものは与えられている。死となりえない生命と、悪となりえない幸福がそれである。」と結ばれます。

 

トルストイのファンの方には再度申し訳ないのですが、そしてトルストイにも頭を下げながら言いますが、「そんなことわかっとるわい!」といったことが論文調の硬い文章で読まされます。

私は二十歳になる年に『復活』に挑戦してみましたが、挫折した記憶があります(あらすじすら覚えていないです)。

2007年刊行の『トップテン 作家が選ぶ愛読書』で1位の『アンナ・カレーニナ』も読んでいませんし、3位の『戦争と平和』も読んでいません。

読まず嫌いなところもだいぶありますが、合う・合わないって、やっぱりあると思います。

私にはトルストイはやっぱり合わないのかな、と考えてしまいました。

トルストイと同時代のロシアの作家だと、ドストエフスキーはいくつか読みましたが。

 

やっぱり、総じて思うのは、今の時代、このような論文調で自明のことを書かれると、逆に、受けつけなくなる、ということです。

鉄拳制裁当たり前の野球部の監督の説教を聞きながら、心の中で「はい、はい」と呟いている部員のような状態になってしまう。

この書が「トルストイ運動」の人々やロシア革命後のソ連でもしかしたら愛読されたのかもしれませんが、現代人、現代の日本人にはどうなのでしょう。

ありがたがって読まれる姿を、ちょっと想像できません。

 

あ、最後に、本書のタイトルは『人生論』ですが、内容はどちらかというと「幸福論」だと思います。

 

 

関東では雨が降っています。

予報では来週中頃が寒さのピークのようです。

みなさんも、一番体が堪える季節、どうぞお体を大切にされて乗り切ってください。

私も自分の体を大事にしてゆるーく書いてみました。

ゆるーくでいいんです、こういう時季は。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

エックハルト・トール『ニュー・アース』 概要と思ったことなどをつらつら

先週帰国した妹と話していて、一番驚いたのは、

「アメリカでは、年齢を訊ねるのはNG、むしろ法的にまずいことになる」

ということでした。

履歴書でも年齢は記さないとのこと。

そのときは、「国が違うと前提となる文化もぜんぜん異なるんだなあ」ぐらいに思った記憶がありますが、今は、

「年齢関係なく、仕事をする能力さえあれば、受け入れられ、そうでなければ、撥ねられる。たとえ老境の方でも、『いま』ビジネスパートナーとして認められればそうなる。それが数ヶ月であろうとも。そのように、『いま』を大切にする国なんだな」

という解釈に変わりました。アメリカの実情に即しているかどうかはわかりませんが。

 

その認識の変化を手伝ったのは、この本を読了したからかもしれません。

 

『ニュー・アース』 エックハルト・トール

 

昨年末から、しばらく新しく読むものはフィクションでないものにしようと思って何冊か併読していたのですが、そのうちの一冊がひどく読みにくい本であり、今日、ようやく本書を読み終えました。他にも本書は各章ずつぐらいにじっくりと読み進めないと読書的効能が薄いと判断したこともあります。こちらは間違いなくいわゆる「スピリチュアル」というジャンルに属する書籍であり、それゆえ、慎重に読むことを求められ、かつ、慎重に語ることを要求されると推測できるので、そのように、じっくりと思ったことなどを書き綴っていきたいと思います。

 

 

エゴについて

本書で最もページを割き、また、最も印象に残るのは、エゴがいかにして人間の精神的機能不全を起こしているかについてです。

著者はエゴが人間にどう関わっていくのかを2つに分けて説明します。1つは中身、1つは構造です。

まず中身とは、エゴが自己同一化していく対象を指します。構造とは、その自己同一化のシステムのことを言います。

例えば、「私は、アメリカの白人女性で、インテルに勤めています。好きなブランドはディオールです。休日はメルセデスに乗って郊外をドライブするのが楽しみです」と自己紹介してきた女性がいるとします。私たちは頷きます。もし、彼女が述べたことが、替えの利く、つまり、執着していないことだったら、彼女は、あまり問題なく人生を通過していることになるでしょう。もし、彼女が、それらのことに、ひどくアイデンティティを覚え、替えの利かない状態だったら、どうでしょう。例えば、彼女の目の前を、彼女のことを意識せずに歩いていた赤の他人二人組が、「ディオールって、ケチ臭い女しか使わんよな」「そうそう。世界で一番いい車はメルセデスしかないと勘違いしてそう」と爆笑しながら去っていったとき、そのことで、憤怒の形相で顔を赤くするほど彼女が傷つけられたとしたら。その女性は、自分の一部、それもかなりの面積を、「ディオール」「メルセデス」に仮託していることになります。そんな悪意のない雑談で彼女のアイデンティティが傷つけられ怒り・失望を覚えるなら、もし「キャリアウーマンってさあ……」と、先ほどと同じように誰かがビジネスの第一線で働く女性を軽視する発言をしたら、同じことが起きるかもしれません。もし女性が特殊な病歴を持ちそのことで苦しみ、その苦しみゆえにその疾病を持っていることをアイデンティティとしていたら……。容易に彼女の人生には不幸と感情の浮き沈みが訪れることは想像つきます。

この「自己同一化」がエゴの問題だと著者はまず唱えます。例えば、「私は慢性疲労症候群で二十年近く寝たきりでした」と訴える人がいるとします。このとき、「私」=「慢性疲労症候群で二十年近く寝たきりでした」という意味になりますが、本当にその人は、「私」なのでしょうか。実際には、厳密には、異なるはずです。その「私」の定義をしているのは「私」なのでしょうが、そのことを見つめている存在が別にいて、それが、その人なのだと著者は言います。そう定義したがる「私」を見つめている私、つまり、純粋意識こそが私なのだと。いや、それは私という世界と分離可能な存在ではない、「大いなる存在」だと著者は言います。

 

エゴが自己同一化して思考・感情という結果として姿を現すものに、「自分は正しく他者は間違っている」「不足感、そして欲望」「恨み」「物語化」「闘争」「優越感」「名声」……と著者は一つ一つ語っていきます。そしてそれらの四苦八苦から逃れるためには、「いまに在る」ことだと著者は説きます。つまり先ほど言った、純粋意識に帰ることだと言います(本書では純粋意識という言葉は用いられておらず、概要としてわかりやすくお届けするために、私があえて用いています)。そして反応しないことだと。観察し続けることだと。

 

ペインボディ

そうやってエゴが活動しているのを助けているのが、身体に過去のネガティブな感情の記憶がエネルギー場として残っている存在として、「ペインボディ」である、と著者は語ります。その無意識のエネルギーがエゴの思考・感情活動を助け、またペインボディに還流されると。

そしてここでもまたペインボディに対処する方法として、「いまに在る」ことだと著者は繰り返します。観察力だと。むしろ「いまに在る」ことを助けるために、エゴやペインボディが人類に課せられたと著者は考えます。

 

その他個人的に印象に残った言葉

  • 思考と気づきは異なる。思考はエゴのもので気づきは「いまに在る」ことから起きる。
  • 出力が入力を決定する(聖書「与えなさい、そうすれば、自分も与えられます」)。

 

感想

前半部分はだいぶ私なりに簡略化して記し、後半部分はほとんど端折って概要を書きましたが、本書の姿勢としては、長い文をしっかりと目を通していくことにより、より理解が深まる、つまり、要約していては「効能」が薄まる、というもののようです。

実際、1ページずつしっかりと読むことによって、私は自分がどれだけエゴの影響を受けていたかを考えさせられました。いろんな物質的な側面、経歴、負の感情と自己同一化していたなと。そういう他者から見たら明らかなことかもしれないことを自覚するのって、なかなか難しい。機会があまりない。無自覚なエゴの汚染に気づき、薄め、手放すことを促す力が本書にはあると思います。また、「いまに在る」ことの難しさも実感しました。私は瞑想の時間を取るようにしているのですが、頭では「こういう状態であるべきだ」とわかってはいるものの、体験としてそのような「いま」にあり続けることはかなり難易度が高い。しかしそれを続けることでしかエゴの罠からは逃れられないと著者は言います。

 

残念なことといいますか、余計な気遣いをするならば、本書のタイトルや副題の「意識が変わる 世界が変わる」や帯の惹句などで、スピリチュアル好きな人は手に取りやすいでしょうけれど、そうでない人は敬遠する造りになっているだろうな、ということです。せっかく無自覚にエゴに支配されていることを指摘する、そしてその解決方法の提示を行っているのに――つまりある意味実用的であるのに――、もったいない。それはペインボディという用語にも言えるかもしれません。こういうフレーズにアレルギーを起こす方は数多くいると推測できます。まあ、どんな分野であれ、無理なものは無理、ってなることってありますよね。野球、サッカー、スポーツそのもの、大谷翔平だって、井上尚弥だって、好きでなかったり興味ない人はいる。ハンバーグやカレーだって、嫌いな人はいるんですから。こういうことは層の問題ですよね。

 

 

「スピリチュアル」分野の本について初めて語ってみましたが、こういうジャンルって、要約や伝えることそのものが難しい。だからこそ書籍という形を取っているのでしょうが。興味を持たれた方がいましたらぜひ読んでみてください。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。